長田百合子・廣中邦充「引きこもりや不登校は親にしか直せない」

長田百合子・廣中邦充,2006,
「引きこもりや不登校は親にしか直せない」
『婦人公論』,9月22日号,24-27.


死亡者を出したアイメンタルスクールの杉浦昌子氏の姉、長田百合子氏の対談。対談相手の広中氏は太陽熱温水器販売などの職を経て、住職になり、寺に不登校の子どもなどを引き取って支援を行っている。


「治す」ではなく「直す」。ここ重要。

廣中
父親の責任も大きい。男女同権というけれど、家庭においてはやはり、父親が大きな柱としてどんと構えるべきです。ところが、母親にも子どもにも遠慮している女親が多すぎる。


長田
学校にも家庭にも、子どもにとつて怖い存在がないんですね。怖い存在があるからこそ、親しき仲でも礼儀や遠慮を待ったり、我慢したりすることを覚える。人間は集団の中でしか生きていけない。子どもが最初に経験する集団は家庭で、そこに序列や怖い存在がなければ、社会性を獲得できるはずがない。


ここで問題なのは、以前の「父親」というものがどういう存在だったかということである。父親は偉いわけではない。父親は社会の規範を代理表象する存在として存在していたために、強力に権威を保つことが出来た。つまり、社会が強力だったから、その代理表象である父親も強力であり得たのである。


現在は社会の紐帯はゆるみ社会規範は弱体化している*1。そのような社会において、たとえ父親が威張ってみても、代理表象する社会が弱体化しているので、空威張りにしかならない。


父親としてどんと構えろ!昔は出来たじゃないか!というのは空虚である。代理表象する強力な社会を背負えない現代の父親がどんと構えても何か良い結果が生まれるとは思えない。要するに、父親が強力な社会的規範を代理できなくなったこと、つまり、社会の紐帯がゆるみ規範が弱まったことを問題視すべきである。

引きこもりは病気ではない


廣中
最近、問題ある子どもを「心の病」扱いする風潮があるじやないですか。なんとか障害とか、すぐ名前をつける。


長田
不登校やいじめにあった子を心療内科に連れていくと、すぐ病名をつけて薬を出す医者が多い。精神安定剤睡眠薬は、「警察白書」では覚醒剤や麻薬と同じ「薬物」に指定されています。そんなものを平気で、心身ともに未発達の子どもに与える親の神経が信じられない。

廣中
薬なんか使わなくても、うちの寺に来て、山のなかで生活環境が変われば、それだけで治りますよ。


長田
そもそも、不登校や引きこもりの子どもを、病気扱いすることじたいが、失礼ですよ。


薬を安易に使うべきではないというのはそうなのだろうが、だからといって、寺に行って治るものなのか。

長田
実際、二十数年引きこもつている40代の子を持つ80代のお母さんから相談を受けたことがあります。私には直せませんと、お引き取りいただいたんですが、泣いて帰っていきました。あえて厳しく言えば、結果的に二十数年「長い目で見て」放っておいたわけで、自業自得です。


どうにもならないというのは、そうなのかもしれない。確かに難しい案件だろう。長田氏の言葉には、「待つ」に対する強力なアンチテーゼが含まれている。

長田
男なんてね、朝「行ってらっしゃい、あなた」と見送って、その後、母親同士で旦那の悪口言いながら高級ホテルでお畳を食べて、帰りに580円のサンマでも買って、「今夜は旬のお魚よ」って出してりゃ、いい顔で給料全部持ってくるような、単純なものなんだから(笑)。


そうやって生きていける人は楽に生きていけるだろうし、ひきこもりなんてものにもならないのだろうと思う。


つらさを抱えて生きることと、それはそれなりに生きていけることにはそんなに違いはあるのだろうか。人間は本質的には変わることはあまりない。ただ、認知が少し変わったり、環境が少し変わることによって、良くもなるし、悪くもなる。ただ、その少しの違いが、意外に大きな違いだったりもする。「男なんてね〜」という形で世界を認知できるだけで、ずいぶんと生きやすくなるだろう。ただ、その認知によって生きやすくなっても、他人にそのことを伝えることは難しい。


生きづらい人の認識や価値観を見て、そんな考えだから生きづらいのだと断言するのは簡単だ。しかし、それはあまりにも鈍感であろう。その人はそういう価値観の中で今まで生きてきているし、その結果を引き受けていかねばならないのはその人自身だ。生きやすい人が出す答えほど役立たずのものはない。つらさを抱えていたけども生きやすくなった人が出す答えも同じように無用だ。もし答えらしきものがあるならば、生きやすくなってからでる結論ではなく、生きやすくなっていく過程での一つ一つの実践の中にあるのだろう。

*1:パーソンズ的にはそうはならないが