引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判
- 作者: 芹沢俊介
- 出版社/メーカー: 雲母書房
- 発売日: 2007/01
- メディア: 単行本
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芹沢の発言より。
昨日も京都でシンポジウムがあって参加させていただいたんですけど、こういう問題が起きるとだいたい出てくる議論というのは、「よい引き出し屋」さんと「悪い引き出し屋」さんがいるんだという話になるんです。その考えでいくと、このアイ・メンタルスクールの杉浦昌子という人は悪い引き出し屋だという話になるわけです。
そうすると「よい引き出し屋」と「悪い引き出し屋」の間にはっきりと分断線が引かれてしまう。そして自分たちはよい引き出し屋だと考える引き出し屋さんたちも、またいると思うんです。ですから、このような分断が引き出し屋さん自らの口から出てくるならば、アイ・メンタルスクールと私どもとは違うといった自己正当化や自己防衛的な発言ということで納得できるんです。けれども当事者の親御さんであったり、それから当事者に関心があったりする人たちの中からも、同様な言葉が出てくる。そういうニュアンスが発言の中からにおってくる。よい引き出し屋さんに頼りたいという気持をそこに感じるのです。
僕はそういう、ふうには考えないのです。僕自身は「引き出す」ということ自体を根本から問い直すということが必要ではないかと考えます。よい引き出しも悪い引き出しもない。引き出すという発想自体が、すでに今度の事件が起きる問題性をはらんでいたのではないか。つまり引き出すという発想そのものの中にこういう病理性、暴力性がはらまれていたという、ふうに考えるんです。僕の立場はそういう立場です。(193-4)
芹沢は『引きこもるという情熱』で「良いひきこもり」と「悪いひきこもり」を分けていた。「良い引き出し屋」さんと「悪い引き出し屋」さんの区分けに芹沢は反対するが、「良いひきこもり」と「悪いひきこもり」という区分けは積極的に主張する。「ひきこもり」は「良い」「悪い」で分けておきながら、「支援者」は「良い」「悪い」で分けるとダメらしい。都合が良い。