高野文子『黄色い本―ジャック・チボーという名の友人』


黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)


父親が娘に「セーターを編む人になること」を薦める場面。

父:どうだ おめの歳でそこまで編み機を賢せる者はそう居ねだろう
   ― ほめられたらいかれ ―
娘:あったりまえさあ
   ― よろこんだらはじろ ―
父:おめが将来どこに勤めることになるだか俺はわからねども おめでねば編めねぇようなセーターを編む人になればいいがなあと俺は思うんだ(33頁)


斎藤環はこの描写を次のように言っている。

 この父親は娘に語りかける際に、けっして自分の意見を「押しつけ」ようとはしない。このあたりの配慮は、この作品の最後まで徹底している。前節の最初の引用例でいうなら、父親は「(お前でなければ編めないようなセーターを)編む人になれよ」とは、けっして言わないのだ。そうではなくて、ゆっくりと、噛みしめるようにして「なれればいいがなぁと」「俺は」「思うんだ」と語りかける。次のやりとりでは「(好きな本を一生持っているのは)いいもんだぞ」とは言わない。やはり「いいもんだと」「俺は」「思うがな」と言う。この語り口の絶妙さがおわかりだろうか。
 父親は娘に意見を言いたい。きっと、いつの世でもそうだろう。しかし、意見を押しつけすぎるのは嫌がられるし、自立の妨げになるかもしれない。だからこそ、意見を表明しつつも、それをけっして強要するつもりがないのだということも同時に伝えたい。かくして「……だと、俺(父親)は思う」という言い方が選択される。そう、このセリフには、思春期を迎えた娘と向かい合う父親の、願望とためらいとが過不足なく盛り込まれているのだ。
−−斎藤環家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』(71-2頁)


父親は娘に「価値観」を押しつけようとはしない。表現された言葉には「願望とためらい」がある。


斎藤環父親視点での話をしているが、ここでは娘視点での話をしよう。


父親の「おめの歳でそこまで編み機を賢せる者はそう居ねだろう」という褒め言葉に対して、娘は「ほめられたらいかれ よろこんだらはじろ」とモノローグする。そして「あったりまえさあ」という表現を口に出す。


「あったりまえさあ」という言葉には感情的な余剰性がない。事実を事実としてなぞっていることと、いささかの意味があるだけである。褒められて「喜ぶこと」に比べれば、はるかに込められている意味は少ない。


父親の言葉は「褒め言葉」とも受け止めることができるにもかかわらず、娘はそうは受け取らない。感情も評価も排除した形で、事実を事実としてなぞることによって、父親の言葉を「褒め言葉」とは違った意味として捉え直している。父親の言葉の後ろで、娘はこのようにモノローグしていた。


「ほめられたらいかれ よろこんだらはじろ」


「褒められること」は「怒る」べきことだという。そして、褒められて「喜ぶこと」は「恥じる」べきことだという。


この文章は、通常の価値観から言うとおかしい。なぜなら「褒められること」は好ましく、良いことだとされているからだ。私たちは褒められることに心地さを感じているのが普通であろう。


しかし娘は心地よさに酔いしれようとはしない。


その理由は、他者によって「褒められ」、それに「喜ぶこと」によって別の不快がもたらされるからではなかろうか。「褒められ喜ぶこと」によって何かが喪失してしまう。


それは何であろうか?と問えば、幾つか思い当たる節はある。


自分の言葉の中で最も思い当たるのは「自尊」という言葉である。他者に褒められることは、他者に承認される事であるが、それは一つの「支配」としても機能する。褒めれば人は喜び、褒められたことに気をよくして、努力して、そのスキルを延ばすだろう。


しかし、そのようなことを繰り返すことによって「褒められること」そのものが目的になってしまう。つまり、褒められるために○○をする。誰かが喜んでくれるから××をする。すべての行為の動機が「誰かが△△だから」となってしまう。


他者が望む私でいなければいけない。他者が望まない私であってはならない。「褒められ喜ぶこと」の快楽は、その快楽の代償として「自尊」を放棄させる。


自らを尊ぶこと。そのために、褒められることに対して怒らなければいけない。もし喜んでしまったなら、自らを尊ぶことを放棄した自身に恥じるべきである。