井出草平の研究ノート

ブルデュー『ディスタンクシオン』輪読会第33夜 覚書

旧版306ページ、普及版325ページから。

見えるものと見えないもの Le visible et l’invisible という章。同様の名前の付いた有名な本がある。

Le Visible ET L'Invisible

Le Visible ET L'Invisible

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読み進めるとメルロ=ポンティでないことがわかってくる。

見えないものは下着?

ブルジョワジーは自由の場である家庭----女性ならばエプロンとスリッパ、男性であれば上半身裸であるかシャシ程度でいられる家庭という世界にまでも、礼儀をもちこもうとするのだが、庶民階級の人々はそんな配慮はさらさらなく、外に見える服、見られるために上に着る服と、外には見えない服、隠れている下着類などとを、ほとんど区別しない。逆に中間階級になると、少なくとも外で仕事をしているときには(最近はますます女性も仕事をする機会が増えてきたのでなおのこと)服装や化粧などの外観に気を配る人が多くなる。

「見られるために上に着る服と、外には見えない服、隠れている下着類」とある。そんな話なのだろうか・・・

ガウンとは

事務労働者が生産労働者の三・五倍も買っているガウンについては言うまでもない sans parler de la robe de chambre que les employés achètent 3,5 fois plus que les ouvriers

原文はローブrobeなので風呂上がりに羽織るバスローブ、ナイトガウンのようなものだと思われる。chemises(仏)shirts(英)は日本語ではYシャツと翻訳されているので訳者の心配りが感じられる。

美的資本への意識

ましてや美容に関して支配者側の規律に従うことを厳しく要求されるような職業につくことはきわめて困難であるために、美しさのもつ「商品」価値については他の階級の女性たちよりも自覚が低く、また身体の矯正に注ぐ時間や努力、犠牲、金額などもはるかに少ないということは納得されよう。

美的資本への意識も出身階級によって異なるという話。

新興プチブルの女性

新興プチブルの女性については、まったく事情が異なる。というのもこれらの職業は、服装に与えられたいろいろな機能のなかでもとくに、変わった趣味をうかがわせるようなところをいっさい拭い去るような目的で作られた制服tenue を押しつけ、またいわゆる品位la tenue ---- ロベール辞典の定義によれば、「通俗や安易に流されることの拒否」を含意する「行動の高潔さと礼儀作法の正しさ」という意味での品位を、つねに要求するものだからである(受付・案内嬢を養成する専門学校では、「生まれつき」の美貌によって選ばれてきた庶民階級の娘たちを、歩きかた、坐りかた、笑いかた、微笑みかた、話しかた、服の着かた、化粧のしかたなどにわたって徹底的に仕込んで作り直すという)>

美貌によって階級の上昇移動をする新興プチブル女性は、美的資本で得ることでそのことを可能にしている、という指摘である。

疎外された身体

美しさというのはこのように、自然の賜物であると同時に美質の獲得でもあり、生まれつきの、 そしてそのことゆえに正当化される優美さであると同時に、また美徳の獲得でもある。そしてこの美徳の獲得は、醜さに対立するとともに投げやりな態度や安易な姿勢にも対立することによって、さらにもう一度正当化されることになる。
したがって、何よりも「疎外された身体」の経験である窮屈さと、これと逆の経験であるゆとりとは、プチブルの人々とブルジョワジーの人々とでは明らかにその差しだされる可能性が異なっている。それはこれらの人々が、身体の正統的な形態と態度物腰については同じイメージにたいして同様の承認を与えていながら、そのイメージを実現するためにそなえている武器には差があるからである。自分の身体をいつまでも奇蹟的に優美さを失わないものとして生きることのできる可能性は、じっさい身体能力がこの承認につりあったものであればそれだけ大きなものとなる。

疎外された身体という言葉が登場する。文脈からいってマルクスの疎外概念である。美貌を労働力とアナロジーで語っていると考えられる。

 (1)労働の対象化されたものが人間主体から自立し、対立的に現れる(労働の成果からの疎外)、(2)労働は生の目的でなく手段となり、人間らしい生活が労働以外の場に求められる(自己疎外)、(3)人間の存在を個人的な現存の手段にしてしまう人間の普遍性の疎外(類からの疎外)、(4)人間の人間からの疎外。この疎外された労働は、労働過程が資本家的生産過程として行われることから生じることを明らかにした。ここからマルクスは、人と人との関係が物と物との関係として表される商品世界における疎外と、労働力が商品となり労働がその使用価値となる資本主義的生産における疎外とを問題にしていった。 https://kotobank.jp/word/%E7%96%8E%E5%A4%96-89801

ブルデューの補足。

最も強く望まれている身体的諸特性(痩身、美貌など)が諸階級のあいだにでたらめに分布しているのではない(たとえばいちばん普通のサイズよりも大きい規格サイズの服を着る女性の割合は、社会階層の下になるほど大きくなる)ということだけを見ても、行為者たちが自分の身体、つまり本質分析が喚起するあの「疎外された身体」、類的身体についての社会的表象とのあいだにとり結んでいる関係を、類的疎外としてとらえることはできなくなるだろう。すなわち身体が知覚され名付けられるとき、ということは他者の視線と言説とによって客観化されるとき、かならずあらゆる身体をみまう「疎外」としてこれをとらえることは、できなくなるだろう(JP・サルトル存在と無』、ガリマール、一九四三年)。 現象学者たちの言う「対他的身体」とは、二重の意味で社会的な産物である。すなわらそれはまずその弁別的特性を自らの社会的生産条件から受けとるのであるが、いっぽう社会的視線とはサルトル的視線のように普遍的で抽象的な客観化の力なのではなく、ひとつの社会的な力なのであって、その効力の一部分はつねに、おのれにたいして適用されている知覚・評価カテゴリーへの承認がその視線の対象となる者のうちに見られるという事実から生じるものであるという意味で、二重に社会的なのだ。

ここで「見えないもの」は疎外のメカニズムであることがはっきりした。

「見えるものと見えないもの」という節を見て、最初はメルロ=ポンティかな?と期待をもたせ、下着の話?、まさか、思った挙句、疎外だというオチであった。

ゆとり Aisance

これにたいしてゆとりというのは、他者の客観化する視線にたいする一種の無関心であって、その視線の力を骨抜きにしてしまう。それはこうした他者による客観化をさらに客観化することができるのだという確信、他者による所有化を逆に自分のものとして所有化することができ、自分の身体の視覚規範を他者にも押しつけることができるのだという確信、要するにあらゆる力、身体のうちに宿って外見上はそこから貫禄や魅力といった固有の武器を受けとっている場合でさえも、身体には本質的に還元することのできないようなあらゆる力を、自分は備えているのだという確信----そうした確信が与えてくれる自信というものを、前提としている。

www.larousse.fr

aisanceという言葉少し多義的であり、英語に相当する単語がない。1)易々ease、2)裕福affluence、3)縫製では自由度freedom of movementという意味のようだ。

www.collinsdictionary.com

aisanceがあるのはブルジョワジーなので、金銭的にも裕福である。また、客観化された視線にもびびらなくて済むという意味もあるだろう。

偉いと思っている人ほど身長を高いと思ってしまう

ダヌマイヤーとサミンがおこなった実験の結果も、以上のような文脈で理解しなければならない。この実験では、親しい人たちの身長を記憶でだいたい推算するよう被験者たちに求めたわけだが、その結果被験者たちは、自分の目から見て大きな権威や威厳をそなえていると思える人ほど身長を実際よりも高く見積もる傾向のあることがわかったのであった。こうしたすべてのことから、「偉い人」を実際よりも大きく感じさせるような論理というのは非常に一般的に適用されるものであること、そしてどんな種類のものであれとにかく権威というのはかならずある誘惑力を秘めているものであり、これを単に私心のからんだ卑屈なへつらいの結果としてしまうのはあまりにも単純すぎるであろうということがわかる。政治的抗議というのがつねにカリカチュア(風刺漫画、戯画)という手段に訴えてきたのも以上のような理由による。つまりカリカチュアというのは魔力を解き、権威の押しつけ効果を支える原理のひとつを嘲笑することを目的とした、身体イメージの歪曲手段なのだ。

身長が高い人を偉いと感じてしまうことはよく知られていることである。コンプレックスから身長を伸ばす手術を受ける人もいるが、ビジネス上の理由でこの手術を受ける人もいる。

脱呪術化

カリカチュアというのは魔力を解き」という言葉がある。

*原文のrompre le charmeのは「魔法を解く」という意味であると同時に、文字通り「魅力をこわす」という意味をかけている。

これはもちろんマックス・ヴェーバーの脱呪術化(脱魔術化)を意識した言葉づかいである。

脱呪術化と合理化は同じ意味で取られることが多いが、違うという指摘もあるようだ。

千葉芳夫「脱呪術化と合理化」
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SO/0060/SO00600L097.pdf

カリスマ

魅力=魔力charmeとかカリスマ性charismeというのはじっさい、ある特定の人々だけそなわった次のような力のことである。つまり自分自身について抱いている表象をそのまま自分自身の身体および存在についての客観的・集団的表象として他者に押しつける力であり、またちょうど恋愛や信仰におけるように他者に働きかけて、その人が人間に特有の客観化能力を放棄してこれを客観化の対象となるはずだった自分に譲り渡し、その結果自分が、外部をもたず(というのも彼が自分自身にとっての他者であるのだから)、存在することを完全に正当化され公認された絶対的主体となるようにする、そうした力のことなのだ。カリスマ的な指導者というのは結局、象徴闘争における被支配者たちのように自分自身にたいして他者にとっての自分であるのではなく、集団にたいして自分にとってサンボリックの自分であるに至るのである。よく言われるように、彼は自分を作る世論を「作りだす」。彼は権力の象徴作用によって、輪郭を描きえぬもの、外部をもたぬもの、絶対的なものとなってゆくのであるが、この権力の象徴作用は、彼が自分自身の客観的イメージを生産しそれを他者に押しつけてゆくことを可能にするものであるがゆえに、彼の権力の構成要素となっているのである。

脱呪術化に引き続きカリスマという言葉が出てくるのはこちらもマックス・ヴェーバーである。カリスマ的支配という用語で有名である。

ja.wikipedia.org

www.econ.hokudai.ac.jp

カリスマ的支配:ある人と彼によって啓示されあるいは作られた諸秩序との神聖性・または英雄的力・または模範性、に対する非日常的な帰依に基づいたもの

つまり、人格的・非制度的なものによる支配の理念型である。

外部

外部というのはおそらくヴェーバーではない。おそらく元をたどると、スピノザの認識論だと思うのだが確証はない。

石井洋二郎『差異と欲望―ブルデューディスタンクシオン』を読む』には下記のような文章がある。

右に挙げたいくつかのせりふにしても、それらが無意識のうちに、正統性を付与された一定の価値(標準語、正しいテーブルマナー、しかるべき服装など)への同意ないしは服従をうながす要請となるやいなや、多かれ少なかれ権力的な表情をまとう。ただしここで権力というのは、もはや社会を秩序だてる絶対的な支配原理としての、大文字・単数形の〈権力〉ではない。それはいたるところに分散して遍在する小文字・複数形の権力であり、普段はほとんど意識されない不可視の行動規範として機能する 「象徴権力」 である。権力がこうしてそのありようを一変させ、外部からの強制力としてよりも、むしろ内部からの自己規制という形で私たちの思考に介入し、身体に絡みついてその方向性を規定するようになれば、これを相手どった闘争も当然ながら、その様相を一変させずにはいない。

権力を論じる際には比較的「外部」という言葉が登場する。外部から強制力が働き従うという権力の形はホッブズ的権力観である。

しかし、ブルデューの権力観は象徴を通して、権力を十全に働かせるということである。やはりカール・シュミットを参照するのがよさそうである。

webmedia.akashi.co.jp

シュミットがさらに一歩進んで問題にすべきだったのは、敵と味方という政治的な区分が、あるいは主権という「表象」が、人々にとってあたかも自明なもの、質感と重みを伴った形象として生成される権力空間とはいかなるものであるか、という問いだったでしょう。

浅野俊哉さんはシュミットの限界について上記のように書いているが、まさにその一つの答えとして登場するのがブルデューのいう「象徴権力」だと言ってよいのかもしれない。『ディスタンクシオン』はサブカルしぐさ的な解釈がされがちであるが、この本の本質は権力論であり、秩序論である。

象徴闘争 la lutte symbolique

フランス語で検索するとブルデューしか出てこないので、ブルデューの造語と考えて間違いない。

lutte symbolique - Yahoo Search - Actualités

石井洋二郎『差異と欲望―ブルデューディスタンクシオン』を読む』には下記のように説明されている。

ある指標が通俗化によって弁別力を失うと、当然ながら差異を明確に映しだすことのできる新たな指標が求められることになるが、このとき生活様式空間は、意識的にせよ無意識的にせよ、卓越性の標識を求めて人々が競い合う差別化Ⅱ卓越化の舞台、上部構造における「象徴闘争」の〈場〉となる。支配者はそこで、自分が昔からなじんできたライフスタイルを唯一正統的なものとして措定し、これを絶対的基準とする価値体系を保守しようとするだろうし、被支配者は逆に、みずからのライフスタイルを支配者のそれにたいするアンチテーゼとして突き付け、既成の価値体系を転覆しようとするだろう。そして両者にはさまれた(じつは社会の大部分を占める)中間層は、下からの圧力に耐えながら支配者を模倣することによって、はからずも既成の階層秩序の維持に貢献する結果となる。(pp.117-8)

376ページで本格的に語られるので、詳しくはそのうち。

次回

317ページ、普及版336ページから。