井出草平の研究ノート

ブルデュー『ディスタンクシオン』輪読会第24夜覚書 その1

旧版233ページから。

美的資本

旧版233ページ

公的な、またとくに私的な官僚体制は、伝統的に男性に、それも多くは社会関係資本およびこの資本を維持するのに不可欠な社交技術がもっとも豊かな、支配階級内の諸階層(貴族、旧家のブルジョワジーなど)出身の男性にゆだねられてきた職業(外交官、内閣官房の役人など)とは、幅の広さにおいても様式の面でも大きく異なった接客・応待の機能を満たさなければならないが、こうした必要性から、女性特有のいろいろな職業と、身体的特性にとっての正統的市場が現われた。女性たちのある者がその魅力から職業上の利点を得ているということ、そして美しさというものがこうして労働市場においてひとつの価値をもつようになったということにより、服装や化粧に関する規準に多くの変化がおこったのみならず、倫理面でのさまざまな変化がもたらされ、女性らしさというものの正統的イメージもまた新たに規定しなおされたのである。

Beauty Capital/ Aesthetic Capitalみたいな話が出てくる。

身体的ヘクシス

性問題に関する相談の専門家たちは、奉仕協会や博愛協会、政治結社などが徐々にプロ化しつつあるのにともなって、社会的に認知されたひとつの職業集団を形成しつつあるが、これは行為者たちが、正統的文化から排除された諸階級にたいして自分の階級文化の必要性と稀少価値を作りだすために教育制度によって与えられた僅かばかりの文化的正統性を振りかざしつつ、自分は無私無欲なのだというあらゆる宣伝熱につきものの確信を秘かに抱きながら、自分のカテゴリーの利益を満足させようとするプロセスの典型的な形を示している。結婚生活相談員からダイエット食品の販売者にいたるまで、今日身体のイメージ・用法に関するありとあらゆることがらについて、いまある姿とあるべき姿とのギャップを埋める手段を提供するような職業にたずさわっている人々は、次のような人々の無意識の共犯行為なしには、おそらくなにもできないことだろう。すなわち身体の新しい用法や新しい身体的へクシス--たとえばサウナや体操クラブ、スキーなどに行く新興ブルジョワジーが自分自身のために見出だしたそれ--を押しつけ、同時に多くの欲求や期待、不満などを生みだすことによって、彼らが提供する製品にとって尽きることのない市場を作りだすことに貢献している人々である。科学の権威をもって、「正常人における体重と身長の対応表」とか、栄養バランスのとれた食事内容、あるいは性生活の理想的平均回数などといった、正常さの定義を押しつけてくる医者や食餌療法栄養士。人間離れしたマネキンのスタイルを、それでも良い趣味を示すためなら許されるとして正当化する婦人服デザイナー。

Des conseillers conjugaux aux vendeurs de produits diététiques, ceux qui font aujourd’hui profession d’offrir les moyens de combler l’écart entre l’être et le devoir-être pour tout ce qui touche à l’image ou l’usage du corps, ne pourraient rien sans la collusion inconsciente de ceux qui contribuent à produire un marché inépuisable pour les produits qu’ils offrent en imposant de nouveaux usages du corps et une nouvelle hexis corporelle, celle que la nouvelle bourgeoisie du sauna, de la salle de gymnastique et du ski a découverte pour elle-même, et en produisant du même coup autant de besoins, d’attentes et d’insatisfactions : médecins et diététiciens qui imposent avec l’autorité de la science leur définition de la normalité, « tables des rapports du poids et de la taille chez l’homme normal », régimes alimentaires équilibrés ou modèles de l’accomplissement sexuel, couturiers qui confèrent la sanction du bon goût aux mensurations impossibles des mannequins,

hexisはディスタンクシオンの中で何度か出てくる用語である。

実践理論におけるヘクシス

フランス語でhexisを検索するとブルデューが最も引っかかる。 日本語にはページはないが、英語版のwikipediaのPractice theoryに比較的分かりやすい解説が載っている。

en.wikipedia.org

ヘクシス:社会的主体が世界で「自分自身を運ぶ」方法、つまり足取り、ジェスチャー、姿勢、アクセントなど。
Hexis: The way in which social agents 'carry themselves' in the world; their gait, gesture, postures, accent etc.

ちなみにハビトゥスは、

ハビトゥス。個人や集団が持っている気質の集合的なシステム。ブルデューハビトゥスを、人間の実践の中に具現化された構造を分析する際の中心的な考え方として用いている。「社会秩序の人間の身体への永続的な内在化」を捉えた概念。
Habitus: Collective system of dispositions that individuals or groups have. Bourdieu uses habitus as a central idea in analyzing structure embodied within human practice.The notion captures 'the permanent internalization of the social order in the human body'.

アリストテレスにおけるヘクシス

ヘクシスを調べると出てくるのはアリストテレストマス・アクィナスである。

こちらの文章から引用をする。

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900066938/13482084_57_261.pdf

もともと〈ヘクシス〉は,ギリシャ語〈echein〉という動詞を名詞化したものである。ところでこの動詞は,他動詞用法と自動詞用法とでそれぞれ独自の意味を持ち,双方あいまって,ギリシャ語固有の世界把握を可能にし ている根源語である。まず他動詞は,〈持つ〉を意味核にして〈状態の保持〉とか,場合によっては不定詞とともに〈…できる〉という状態,能力の所有状態のことをも意味する。英語でいえば,〈have〉が〈keep〉へと拡張していくような形で意味の幅が決められている。その自動詞の用法は,持つ・所有する(have)から状態の保持(keep)へ力点が傾斜して,状態をしめす独特な表現群を可能にしている。したがって,その名詞〈へクシス〉は,「所有→持続→状態→持ち前→習性→能力」などの意味関連を形成することになる。こうして一見無関係に思える,〈所有〉と〈性質〉がいわば〈have〉が〈keep〉にずれ込むような仕方で連続するのである。中でも,〈echein〉の自動詞用法は独自な振舞いをする。

アリストテレスは,この語のもつ〈できる・能力〉という意味にも,特に狙いをつけていることも指摘しておかなくてはならない。ヘクシスとしての〈性向(性質:poiote‾s)〉とは習熟によって獲得されたものであるから〈所有(kte‾sis)〉である,いや所有でしかない。これが話の前半である。しかしこの〈所有されたヘクシス〉は,その〈性質〉にしたがった〈活動(energeia)〉への獲得された〈能力(dynamis)〉である。獲得した〈ヘクシス(性質)〉=所有は,その性質にしたがった本来の使用(chre‾sis)にさし向けられており,その使用へと発動する能力状態にある。ヘクシスとは,そのような潜在能力(dynamis)として,その活動という故郷に帰還することを本分としている。

トマス・アクィナスにおけるヘクシス

hexisという用語を使ったことで有名なのは、トマス・アクィナスである。

http://greek-philosophy.org/ja/files/2007/03/2007_4.pdf

トマスは自らの倫理学の中にアリストテレスの「性向」概念を導入するにあたり、『カテゴリー論』(11)および『自然学』(12)の記述を典拠としているが、トマスが最も主要的に依拠しているのは、アリストテレス自身による「哲学事典」といわれる『形而上学』第5 巻第20 章における「性向hexis」の定義(13)であるように思われる。ここで「性向」と訳す「hexis」というギリシア語および「habitus」というラテン語は、共に「持つechein, habere」という意味の動詞からの派生語である。ここでアリストテレスは我々にとって問題となる意味での「hexis」を次のように定義する。 「hexis とは、それによって、或る状態づけられたものが、それ自体においてにせよあるいは他のものに対してにせよ、善くもしくは悪しく状態づけられるところの、その状態diathesis をいう。たとえば、健康は或るhexis であると言われるが、それは、健康がこのような意味での状態だからである。さらに、hexis と言われるのは、そのものにこのような状態をもった部分がある場合である。この意味を有するがゆえに、それの部分の徳[たとえ ば魂の部分的能力の徳]さえもそのもの全体のhexis と言われる。」(14) この意味での「性向 hexis」は、「性質 poion=qualitas」のカテゴリーの一種として位置づけられる(15)。さらに『カテゴリー論』においては、この意味での「性向 hexis」は、「状態 diathesis=dispositio」という概念と共に、四つある「性質」のサブカテゴリーの内の「第一の種に属する」ものとされている。「性向」が「性質の第一の種に属する」とされる位置づけの意味について、トマスは、シンプリキオスの解釈を語の表面的な用法のみを見るものとして批判した上で、「事物の本性natura rei への関連における基体の様相ならびに確定」と解している(16)。トマスは、上述の『形而上学』のテキストにおける定義において、「それによって、或る状態づけられたものが、『それ自体において』善くもしくは悪しく状態づけられる」と規定されているのは、この「自らの本性に関して」の秩序づけということを意味している、と解している。

岩波書店『哲学・思想辞典』の「習慣」の項目

【へクシス-ハビトゥスアリストテレスは習慣(ヘクシス)を性質のカテゴリーに属するものとして捉え、その代表的な例として知報(エピステーメー)と徳(アレテー)を挙げている。このような例が示しているように、習慣はもともと理性や意志など、心あるいは現の能力に付加された状態・性質として理解されており、その点はアリストテレスのヘクシス概念を受けついで理論的に整理し、発展させたトマス・アクィナスを中心とする中世・スコラ哲学における習慣(ハビトゥス)論においても変りはない。
すなわち、こんにち<習慣>という言葉が、反復の結果として生じる身体的行為の無意識化ないし自動機制化を指すことが多いのにたいして、トマスが<ハビトゥス>という言葉で第1に考えていたのは知恵、様々の学問的知識や技術、さらには、正義勇気などの倫理的な<徳>であった。習慣はわれわれの行為を意識なき自然の領域へと転落させ、閉じ「こめるものとしてよりは、むしろわれわれが何事かを意志のままに、欲するときに為すことを可能にしてくれるもの、その意味で理性の支配ないし、自由の領域を拡大するものとして捉えられていた。
このように、習慣を自由に対立させるのではなく、むしろ自由(の拡大)の軌跡として捉えるスコラ学ハビトゥス取念の根底には、人間の自然本性はきわめて可塑的、あるいは根元的に未完成であるとの洞察が見出される。すなわち、人間の現実とそれが達すべき、完全性としての究極目的との間には大きな落差があり、この落差の大きさは人間が自らの努力と勤勉を通じて獲得する完全性としての習慣ないし徳によっては十分に埋めることができず、神の無償の恩寵によって「注入される」徳(信仰、希望・愛)を必要とするほどのものであるとされた。

ブルデューの使用法は「反復の結果として生じる身体的行為の無意識化ないし自動機制化」である。

ヘクシスに関する整理

ディスタンクシオン』といえば「ハビトゥス」であるため、このあたりは押さえておく必要がありそうだ。
ただ、「身体の新しい用法や新しい身体的へクシス」と書いてあるので、トマス・アクィナス的な「信仰」の話でも「アレテー」の話でもないようだ。 並列で「身体の用法usages du corps」と書かれてあるので、身体の使い方の問題のようだ。また「新しい」とも書いてあるため、人間が本来的に保持している潜在能力ということでもなく、社会的に規定されるものとして使われている。

新興ブルジョワジーが他の人々と差異化させるために行っている、サウナ、体操クラブ、スキーが挙げられている。また、他に「正常人における体重と身長の対応表」栄養バランスのとれた食事内容、人間離れしたマネキンのスタイルを推奨するファッション・デザイナーといったものも例として挙げられている。

身体の規範的なものが掲げられたり、差異化の方法になっているとし、一方で、ギリシア語の原義に近い解釈で、ヘクシスとはそもそも所有されるものであり、その〈性質〉にしたがった〈活動〉への獲得された〈能力〉だとすると、「新しい身体的へクシス」というのは、現代において、私たちが共有するようになった身体的な使用の性向であり、活動するために持つようになったものと解釈してよいのだろう。

ともあれ、ヘクシスという言葉をアリストテレストマス・アクィナスから直接引用したのではない可能性もあるので、気になるところである。身体について議論されているので、フーコーかな?と思うのだが、どうもそうではないようだ。

検索していたら拾ったもの。

ヘクシスとは、アリストテレスの概念で、アクィナスやボエティウスラテン語ハビトゥスと訳したものである。これらの著者において、ハビトゥスは、一方では行為と効力の間の中間的な用語として重要な役割を果たしている。すなわち、ハビトゥスを通じて、存在に一般的に刻まれている潜在能力は、行為を実行する具体的な能力に変換されるのである。この言葉はその後、多くの思想家によって使われ、発展してきたが、ブルデューにおいて、ハビトゥスは体系的かつ社会学的な定式化を受けることになった。
*Hexis es el concepto aristotélico que Aquino y Boecio tradujeron al Latín como hábitus. En estos autores, el habitus juega un papel clave como término intermedio, por un lado, entre el acto y la potencia -mediante el habitus se transforma la potencialidad inscrita genéricamente en los seres en una capacidad concreta de realizar actos-, y por otro, entre lo exterior y lo interior -explicaría la interiorización de lo externo, ligando así la historia pasada a las actualizaciones presentes-. Después este término fue usado y desarrollado por muchos pensadores, pero es en Bourdieu donde el habitus va a recibir al mismo tiempo una formulación sistemática y sociológica.
https://cisolog.com/sociologia/jose-luis-moreno-pestana-hexis-filosofia-y-sociologia/

志望水準

旧版239ページ。

以前は非常に明確な境界をもったシステムが、社会的分割にはっきり対応する学校制度上の分割をその内部にとりこんでいたのにたいし、分類が不明確で混乱している今日のシステムは、競争試験の無慈悲な厳しさに象徴される旧システムほど厳格でも強引でもないしかたで、「志望水準」を難易度や学校レベルに無理やり合わせるように強いることにより、それ自体がもともと不明確で混乱している志望を(少なくとも学校空間の中間的水準においては)助長しあるいは許容している。
Alors que le système à frontières fortement marquées faisait intérioriser des divisions scolaires correspondant clairement à des divisions sociales, le système à classements flous et brouillés favorise ou autorise (au moins aux niveaux intermédiaires de l’espace scolaire) des aspirations elles-mêmes floues et brouillées en imposant, de manière moins stricte et aussi moins brutale que l’ancien système, symbolisé par la rigueur impitoyable du concours, l’ajustement des « niveaux d’aspiration » à des barrières et des niveaux scolaires.

フランスでは、職業コースに入ると、バカロレアを取って大学に進学というのは難しくなるため、複線的なカリキュラムが予備的に階級を形成しているという文脈で出てくる言葉。日本はアメリカ型の教育制度であり、ほぼ直線的な教育カリキュラムであるため、フランスとは状況は異なる。やや極端な例であるが、どんなに勉強ができなかった(過去形)であっても、勉強さえして高卒資格や高認検に合格すればどんな大学でも受験できる。フランスの場合は、これがやや難しいので、予備選抜として複線型の教育システムが利用されているという考察である。

ドイツ型の場合は小4から進路を考え、小6で決定するので、本人の能力とは無関係で、親の階級によって子どもの将来の階級が決定されてしまうという点ではフランス以上にひどいのだろう。

ちなみに、原文をみるとaspirationと書いてあるように、教育アスピレーションのことであるが、現在の日本やアメリカの社会学でいう教育アスピレーションとは文脈も意味するところもやや違うので注意が必要だろう。