旧版p.261の8行目から。
ハビトゥスの説明、分類であり分類する動的なもの
経済的・社会的条件(すなわち共時的・通時的にとらえられた資本の量と構造)の関与的特徴と、生活様式空間においてそれに対応する位置に結びついた弁別的特徴とのあいだに事実上成立する関係は、分類可能な慣習行動や生産物と、これらの慣習行動や作品を弁別的記号の体系として構成するようなもろもろの判断(それら自身もやはり分類されている)とを両方同時に説明できるような生成方式としてハビトゥスを構築するのではないかぎり、理解可能な関係にはならない。(p.261)
以下の2つを両方同時に説明できるのがハビトゥス
- 分類可能な慣習行動や生産物
- これらの慣習行動や作品を弁別的記号の体系として構成するようなもろもろの判断
ハビトゥスは構造化する構造であるとともに、構造化された構造でもある
ハビトゥスは構造化する構造、つまり慣習行動および慣習行動の知覚を組織する構造であると同時に、構造化された構造でもある。なぜなら社会界の知覚を組織する論理的集合(クラス)への分割原理とは、それ自体が社会階級への分割が身体化された結果であるからだ。各々の存在状態は、そこに本来そなわっている諸特性によって規定されると同時に、これと切り離しがたいかたちで、もろもろの存在状態の体系----それはまた差異の体系、差異を表わす位置の体系でもあるわけだが----における位置づけしだいで決まる相対的諸特性、つまりその存在状態をそれ以外のあらゆるものから、とりわけそれが対立しているあらゆるものから区別するすべてによってもまた、規定されている。(p.263)
動的モデルへのこだわりが主張されている部分である。
図8 の用語
図8自体はそれほど難しくない。ただ、図8がわかって本文が分かりやすくなるか、というと実はそうでもないという図版でもある。『ディスタンクシオン』にはこういった謎図版や謎写真が多い。
単数形の趣味・複数形の趣味
p.262の図式にある「単数形の『趣味』」なる言葉。
日:知覚・評価図式の体系(単数形の「趣味」)
仏:système de schemes de perception et d'appréciation(«le gout»)
日:分類されかつ分類する慣習行動すなわち弁別的記号の体系としての生活様式1 (複数形の「趣味」)
仏:style de vie 1, comme système de pratiques classées et classantes i.e. de signes distinctifs («les goûts»)
単数形というのは«le goût»であり複数形は«les goût»である。 微妙な表現な気がするのだが、あえて言うと、le goûtは味や味覚といった感覚のことを指し、les goûtは味わい、嗜好など具体的な慣習や行為を示しているのではなかろうか、ということだろう。
訳者泣かせの記述である。
とはいえ、この部分はまったく無くても理解できないことはないので、どうでもいい部分かもしれない。
図式
図式はschèmeである。けっこう、これはカントっぽい所。
作品 « œuvre »
作品というと、絵画・音楽・文学などを連想してしまう。ただ、その意味だと「慣習行動または作品の生成」の「または」の前と後ろがアンバランスである。
système de schemes générateurs de pratiques ou d'oeuvres classables
« pratique »が慣習行動でouでつながれていてその後の« d'oeuvres »が作品である。« œuvre »は英語では"works"であり、日本語では「作品」である。
フランス語では下記のような意味があるようだ。
œuvre
- 任意のエージェントによって実行される仕事、タスク、アクション:長い期間の仕事。
- 仕事、行為の結果としての物体、システムなど。
- 心の生産、才能の生産;文章、絵画、音楽作品など、あるいは作家、芸術家の生産物の全体。
- 宗教的、道徳的、社会的または慈善的な目的を持つ組織:慈善団体に寄付をすること。
œuvres
- 道徳的または宗教的な観点から判断された人間の行動、特に自分の救済のために行われる行動のこと。
- 慈善的、博愛的な組織。
芸術作品の作品だけではなく、仕事、宗教的、道徳的、社会的、慈善的な行為といった意味がある。そういった広い意味で使われているのだとすると理解はできる。
メタフォール
ハビトゥスはたえず実践レベルでのメタフォールを生みだす。(p.264)
メタフォールはフランス語« métaphores »をカタカナにしたものである。英語ではメタファー、日本語では暗喩・隠喩である。英語のほうが一般的なのでメタファーと書いたらいいのに、と思ったりもしたが、これは、フランス現代思想を連想せよ!という訳者石井さんの親切心なのではないのか? とメンバー間でだいたい意見が一致した。
エクリチュール
エクリチュール キタ―――(゚∀゚)―――― !!
たとえば「筆跡」と呼ばれる性向、つまり文字を描く各々独自の方式(p.265)
la disposition que l’on appelle « écriture », c’est-à-dire une manière singulière de tracer des caractères,
この文章は「筆跡」の話もしているので、日本語訳は筆跡で良いのだろう。しかし、日本語の筆跡として読みすすめると、文章の意味が分からない。そのあたりは日本語では諦めるしかないのが、これはダブルミーニングだと考えたほうが合理的である。原文が« écriture »だとわかると、ブルデューの言わんとしていることが分かったと個人的には感じている。
いわゆる「匂わせ」である。
密かに引用されているのは、おそらくこの人の著作である。
デリダの『エクリチュールと差異』を社会の事象に援用しつつ、ハビトゥスの説明を現代思想風に説明をしているといった形だと、「ああそういうことか」と一応納得ができる。
ハビトゥスのメタフォールの説明を、現代思想のメタフォールで行う形になっていする。なんだかすごく現代思想的である。
ブルデューの文章には「匂わせ」が多く含まれている。
読解をするだけであれば、無視をすればいい。
そもそも今まで読み込んだところだけで言えば、「匂わせ」がわかったところで、なにか新しいことがわかったということはほとんどなかったからだ。
今回は、メンバーの言い方だと、これは「フランス現代思想マウンティング」とのことだ。
記号そのものでは意味をなさない
つまりそれらを相関的特徴の体系からはがしとって扱う傾向のある調査研究は、各々の点について階級間の隔差を、とくにプチブルとブルジョワとの距離を縮小してしまう傾向がある。たとえばブルジョワ生活の普通の状態においては、芸術や文学、映画などについてのありきたりの意見でも、それを語る人の重みのある落ち着いた声、ゆったりとした麿揚な語り口、冷ややかなあるいは自信にあふれた微笑、節度ある身振り、仕立ての良い服、ブルジョワ的サロンなどがこれに結びついているのである。
記号そのものの持つ差異性というのは決定的ではないという話である。個心的にここは興味深いと思ったので、まとめに入れてみた。
2つ論点がある。
文化が時代とともに位置づけが変わっていくもの、という捉え方。ディスタンクシオン図5と図6(https://ides.hatenablog.com/entry/2021/09/26/141757)ではゴッホやウォーホルが文化資本が高いと書かれているが、現代ではすっかり位置づけが変わってしまっている。特に日本人はゴッホが好きと言われるくらいマスに訴求できるコンテンツになっており、クレラー=ミュラー美術館展になるところがゴッホ展になるほどである(https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html)。ウォーホルは陳腐化してしまっている。
このメカニズムの説明は『ディスタンクシオン』の中にもよく登場している。マーケティング用語でいうと、アーリーアダプターがもてはやしていたものが、レイト・マジョリティーに移ると、差異化のツールとして使えなり、ラガードが使い始めると、もはやダサいのである。
もう一つの捉え方が、状況的な捉え方だ。荻野昌弘先生が『文化遺産の社会学』などで詳しく述べている。簡単に言うと、芸術品はそれそのものに価値があるから価値があるのか、美術館で価値があるように展示されているから、価値があると皆が思うようになるのか、ということである。
よく知られた例でいうと、便器にサインを書いて「泉」というタイトルで展示すると美術品になるといったケースである。マルセル・デュシャンは1917年に「ニューヨーク・アンデパンダン」展にこの出品しようとしたが協会に出品を断れている。協会側は買ってきた便器にサインをしたものが作品だと認められないと考えたのだろう。協会側は作品そのものに芸術性があるか否かで判断したわけだが、芸術というものは、状況によって規定されるものだというのがデュシャン的であり、現代美術的な視点なのだ。
一応、文化的な表象だけを調査しても、文脈依存だから誰がどういう状況でその表象を用いたか、という所を調べないとダメですよ、ということである。つまり、物は便器でも、泉という作品なので、物だけ調べても意味ないですよ、とブルデューは言っているわけだ。この比喩はハビトゥス全体に当てはまるものでもある。
趣味 « les goût » は連続的なものを質的に分断するもの
したがって趣味とは、事物から判明にして弁別的な記号への、すなわち連続的分布から非連続的対立関係への転換を操作する、実際上の作用因である。それは物体の物理的秩序のなかにしるされている差異を、意味をもつさまざまな区別の象徴的秩序へと接近させる。つまりそれは、客観的に分類された慣習行動----そのなかである存在状態が(趣味を介して)それ自身を意味するような慣習行動----を、分類する慣習行動へ、すなわち階級の位置の象徴的表現へと変容させるのだが、この変容はこれらの慣習行動をその相互関係のなかで、また社会的分類図式との関連においてとらえるということによっておこなわれる。(p.267)
重要そうではあるが、重要じゃないかもしれない。
質的に分断し、階級の位置の象徴的表現とするものが趣味« les goût »だということのようだ。文章は理解できるが、ちょっと何を言っているのかわからない。
趣味 « les goût » は与えられたもの
だが、こうした源泉に客観的に適合する慣習行動を支配しているのは、必要趣味であれ贄沢趣味であれとにかく趣味なのであって、収入が少ないか多いかといったことではない。つまり人が自分の好きなものをもっているのは、自分がもっているものを好きになるから、すなわち配分上実際に自分に与えられ、分類上自分に割り当てられている所有物を好きになるからなのだという事態を、趣味はもたらすのである。(p.268)
ある程度、ハビトゥスは再生産の過程において、継承されていくのだろうが、個人的な感覚からというと、後天的にかわる変わる気がする。少なくとも現代においては。
そうすると、ハビトゥス論は成り立たなくなるから、という話ではある。日本で、現代でハビトゥス概念がいまいちピンとこないと、様々な人が言っているはずだが、その原因はこのあたりにあるのではないだろうか。
禁欲的エートスとクレジット
今回、読解できなかった所である。
あるいはこう言ったほうがよければ、そのハビトゥスを実践にうつすための特殊条件によって要請される体系的移動を、生みだすのだ。たとえばつねに節約というかたちで現われるであろうと予想することもできたはずの同じ禁欲的エートスが、ある特定の文脈においては、クレジットを利用する特殊な方式のなかに現われてくることもありうるといった具合である。(pp.254-5) c’est-à-dire, dans un autre langage, des transferts (dont le transfert d’habitudes motrices n’est qu’un exemple particulier) ou, mieux, des transpositions systématiques imposées par les conditions particulières de sa mise en pratique, le même ethos ascétique dont on aurait pu attendre qu’il s’exprime toujours dans l’épargne pouvant, dans un contexte déterminé, se manifester dans une manière particulière d’user du crédit.
節約と禁欲的エートスが一緒にあるのは理解できるが、クレジットとは信用を対価とした資金の前借の話なので、むしろ逆の話なのでは?という疑問があるわけだ。疑問なのは特にこの部分。
le même ethos ascétique dont on aurait pu attendre qu’il s’exprime toujours dans l’épargne pouvant
節約 « épargne »
節約で私たちが思い浮かべるのは「今月はお金がないので節約します」みたいなものだと思うので、フランス語では« économiser »になる。しかし« épargne »なので、少し掘る必要がありそうだ。
épargne
- 経済主体の収入のうち消費されない部分で、資本を蓄積するために使われるもの。
- 使わないお金を置いておくこと、節約すること: 節約の結果、彼は小さな資本を築いた。
- 何かを使用する際の経済:時間の節約。
節約というよりも余剰資本に近い意味合いととった方がよさそうだ。
禁欲的エートス « ethos ascétique »
おそらくマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の引用で間違いない。仏語で検索すると教会関係のページがたくさん出てくるが、キリスト教的な意味ではないだろう。
『プロ倫』のあらすじは以下のようなものである。カルヴァン派では予定説というものがあり、誰が救済され誰が救済されないかが事前にわからない。そのため、信仰を深めるには、自身の仕事に打ち込むことになった。いわゆる「天職」というものである。しかし、世代が変わるとそもそもの原動力となった信仰心というものが脱落してしまい、一所懸命働くというもの=禁欲的エートスは残ったという話である。ちなみにこのメカニズムがウェーバーにおける「合理化」である。
ある状況下でクレジットを使用する « particulière d’user du crédit »
禁欲的エートスによる余剰資本の蓄積とある状況下でのクレジットの使用は下記の具体例として出てくる。
ある一人の行為者がおこなうすべての慣習行動や仕事は、さまざまな場にそれぞれ固有の論理が要請する転換操作によって、同一の構造化する構造(作りだす方法)が生みだす多様な構造化された生産物(作りだされた作品)であり、ことさらにそこに一貫性を探そうとしなくてもそれらのあいだでたがいに客観的に調和しているし、また意識的に他と協調させようとするまでもなく、同じ階級のあらゆる人々の慣習行動や仕事と客観的に協和しているものである。ハビトゥスはたえず実践レベルでのメタフォールを生みだす。つまり別の言いかたをすればもろもろの転移(推進力となる習慣の転移はそのひとつの特殊例にすぎない)を、あるいはこう言ったほうがよければ、そのハビトゥスを実践にうつすための特殊条件によって要請される体系的移動を、生みだすのだ。
このパラグラフもかなり意味が取りにくい。「ハビトゥスはたえず実践レベルでのメタフォールを生みだす。」というのが重要なので、そこだけでもOKのような気がする。
『ディスタンクシオン』では「別の言いかたをすれば」みたいに、一見、親切に具体例や言い換えをしていくれる箇所が多数ある。しかし、私たち読者の期待を裏切り、具体例や言い換えをした箇所こそ、むしろさっぱりわからないのだ。結論としては、ブルデューの書き癖だ、ということなのだが「あまりこういう書き方は良くないよねー」と当たり前のことながらメンバー間で意見は一致した。
暫時的な結論
メンバーの仮説を少しまとめてみよう。
ビジネスを考えると余剰資本を上げることを目的として営利企業は存在するが、時にクレジットによって資金調達をして設備投資などをする。営利企業のなかでは、相反するものが、行動原理として成り立つこともある。ブルデューが述べているのは会社組織ではなく、個人の行動・ハビトゥスについてだが、個人レベルでの話に落とし込めばよいのではないだろうか。
一応、考えつく限り、こういったことを言っているのではないか、という話にはなった。
しかし、これが正しい保証はない。
少なくとも「クレジットを利用する特殊な方式」の「特殊」とは何かがわからない。ブルデューをイタコ芸で降ろしてみなたいと分からん、ということにはなった。
"se manifester dans une manière particulière d’user du crédit"を「クレジットを利用する特殊な方式のなかに現われてくることもありうる」と石井さんは翻訳しているが、「クレジットのある特定の使用方法に現れることもある」くらいで翻訳しておけば、ひっかかりは少なかったかもしれない、とは少しおもった。
余談
1979年のクレジット・カードの利用と現代のクレジット・カードの利用は言うまでもなく、大きく変わっている。欧米だと、現金を持ち歩かない生活がかなり前から一般化していて、日本でも電子マネーやクレジットカードの普及によって近年、決済方法が大きく変わった。
最近、お店で買い物をするときに、時々悩むことがある。
「クレジット・カードも使えます、suicaやEdyも使えます、paypayも使えます、どれにしますか?」というものだ。楽天カードがあれば、楽天カードで1%、Edyにチャージすると0.5%、合わせて1.5%還元があるので、還元率がコストに比例して比較的高い。個人的な基本戦略はEdyを使うことなのだが、paypayという少し厄介なものもある。
paypayは始まったころは、高額の還元があったが、最近は、キャンペーンをしている時くらいしか、まともな還元がない。執筆時現在の最大20%還元キャンペーンは店側から手数料をとるようになった対策をしているが、このキャンペーンも早晩終わるはずなので、paypayはどこで使うんでしょうね、というのが割と謎になってきている感じがする。
もちろん、インターネット通販でカード情報を入れるのはできるだけ控えた方がいいので、paypayの使いどころはある。海外通販でpaypalを使うようなものだ。
現代の私たち(ではなく僕かもしれない)は現金を使わないためにクレジット・カードや電子マネーを利用し、ポイントを細々と稼ぐために、決済手段の選択をしている。通販では安全性を考え、決済手段の選択をしている。
クレジットの持つ意味も大きく変わってしまった。
弁証法的関係
前回の積み残しで主催の先生に説明いただいた部分。具体的な箇所は以前のエントリで挙げたところだ。
端的にまとめると、プラトンの「ディアレクティケー」まで考える必要はなく、ヘーゲル的な理解でいいんじゃないかとことである。 「正反合」はよく聞く話だが「ボケ・つっこみ・オチ」が弁証法の一つと言っている人もいるという新情報も得た。「つっこみ」といっても多種多様なので、つっこみとはと語るのは間違いの元なのだが、だいたいの場合、つっこみはボケがいかにしてボケているかを明示しつつ、観客に正しいボケの理解の仕方を教えてくれるものと位置づけられ、そのことによってボケが笑いに昇華するので、ちょっと違うのかもしれないとはおもった。しかし、つっこみの理解次第では、この解釈への評価もかわるのだろう。
ヘーゲルとマルクスの違いについても触れられたが、唯物論的な弁証法を知るには、個人的にはこの本が良いのではないか、と思ったのだが、言い忘れたのでメモっておこう。
この中に、「ヘーゲル哲学の批判」という論考が収められていて、ヘーゲルってキモいよね、的な話をしているので、輪読会の中で話していたことに近い内容が含まれている。
マルクスだと下記の本が代表例。「ヘーゲル法哲学批判序説」の方だ。
当時は、弁証法的関係みたいな言いまわしが流行っていたんでしょう、ということに。
システム論と言い換えてもよさそう(ルーマンじゃないやつ)と個人的にはおもった。
当時の流行で言えば「構造化する構造」みたいな言い方も流行った、みたいな話が出た。構造主義を引用する現代思想でそういう言い回しが出てきた記憶があるので、時代性を感じる会だった。
森建資『雇用関係の生成 イギリス労働政策史序説』
マルクスの話の流れで、いい本なんだけど絶版で手に入らないという話題で出てきた本。読んでないので想像の域を出ないが、日本でも農業資本主義が江戸中期には確立していて、日雇い労働・賃労働が確立していたことが実証主義的な歴史学者たちによって明らかにされている。『ディスタンクシオン』とは関係ないが、このあたり掘るといろいろ面白そうだとは思う。
女性の話が出てこないのはなぜ?
『ディスタンクシオン』を読んでいて最近、思っていたのは、ブルデューはずっと男性の話をしていることである。1979年といえば、フランスにはボーヴォワールもいれば、時代的には第2次フェミニズム運動の影響も受けていたはずである。差異化の最たるものの一つは服装であって、女性を外して語るのには無理があるのではないか、というのが現段階での感想だ。
ファッションと階級
女性はズボン(パンツ)が履かなかった・履けなかったという話。
フェミニズムでは、コルセットについてよく書かれるのだが、その後の、ガブリエル・シャネルとイヴ・サンローランの存在は忘れがちである。女性がズボン(パンツ)を履くことができるようになったのはこの2人の影響が大きい。シャネルのことを言う人は時々いるが、サンローランについて語る人がいないのは謎の一つである。サンローラン人は、パンツルックも功績の成期の一つだが、他にもランウェイで有色人種を初めて起用したりと、様々な改革をしてきた人である。ファッション業界という差異化のメカニズムの真っただ中にいた人ではあるが、差異化のメカニズムで社会変革に貢献した人物でもある。
ファッションにおけるジェンダーレスは女性が男装をすること、とちゃんと書いてある記事を見つけた。
全体的にはガリアーノのメゾン・マルジェラの話だが、ちょっと特殊すぎるように思う。
服作りを通して階級にアプローチをしようとしている人たちもいる。
「ルメール」のクリストフ・ルメールとサラリン・トランのインタビューから。
世の中にはいまだ階級というものが厳然としてあり、その階級をあらわす服があることも知っています。私たちは、そういうものも取っ払って、人間の内面に迫りたいんです。
これが実現してしまうと、これはこれで大変だな、とは思うが、興味深い取り組みだとは思う。
次回
p.268 諸空間の相同性から。