井出草平の研究ノート

ブルデュー『ディスタンクシオン』輪読会第26夜 覚書

階級脱落と再階級化の弁証法的関係

あらゆる種類の社会過程の原理になっている階級脱落と再階級化の弁証法的関係は、関係しているすべての集団がみな同じ方向に、同じ目的に向かって、同じ特性をめざして走っているということを前提とし、また要求する。その定義からして後続集団には到達することのできぬものである。なぜならそうした特性はそれ自体どんなものであるにせよ、他の集団から先頭集団を分かつ弁別的稀少性によって限定され特徴づけられるものであって、その数が増加し一般に広まってゆくことによって下位集団にも手の届くものになってしまうやいなや、それらの特性はもはや本来の姿のままではなくなるであろうからだ。だから一見逆説的なことではあるが、秩序=順序の維持、つまりさまざまな隔差、差異、順位、席次、優先権、独占権、卓越性、序列的特性、したがって社会形成にその構造を与えるさまざまな順序関係の総体の維持は、実体的な(というのはつまり関係的ではない)諸特性の絶えざる変化によって保証されているのである。


このメカニズムを理解すること、それはなによりもまず、永続か変化か、構造か歴史か、再生産か「社会の産出」か、といった学問上の二者択一をめぐって生じる議論のむなしさを知ることである。こうした議論は実際のところ、次のような諸事実を根本的になかなか容認することができない。すなわち、社会的矛盾と闘争はかならずしもつねに、既成秩序の恒久化と相容れないわけではないということ。「二項対立的思考」の対照法を超えて、永続性が変化によって、恒久的構造が運動によって、それぞれ逆に保証されることもありうるのだということ。(pp.254-255)


このメカニズムを理解することは、基数的〔基本的・実体的〕と呼ぶことのできる諸特性を根拠として労働者階級の「ブルジョワ化」を口にする人々も、序数的〔序列的・相対的〕な諸特性をもちだして彼らに反駁しようとする人々も、自分たちのとりあげている現実のたがいに矛盾した側面が、じつは同じひとつのプロセスの切り離せない側面なのだということに気がつかないという点では、明らかに共通しているということを理解することでもある。(p.255)

今回は主催の先生が体調不良でお休みだったので、こちらは次回へ持ち越し。
ブルデューマルクスの補完的な理論展開をしているという流れの部分の一つ。

進化論者

(進化論者のたてたモデルが意味深いものであることがわかる)(p.253)

特定はできないがハーバート・スペンサー
スペンサーはあまり勉強していないので、よくわからない。

クレジット

このシステムがクレジットによる購入という方式に大きな価値を認めているのは偶然ではない。(p.253)

差異化の中で先行者に追いつくために、クレジット払いで今買えないものを、買っていくという表現。
高度経済成長下ではインフレが起こり、借金をしても額面はそのままに実質的には減額されるため、利息は負担にはならない。経済システムだけで考えても、様々な購入を促すような動きになる。
ブルデューは経済的側面については触れておらず、差異化に用いるチート的なツールとして「クレジット」を持ち出している。

ブルデューの記述からは逸脱するが、経済と文化はある程度、共犯関係にあるということ、成長とインフレが背景にあるからこそ、差異化の動きが活発化するのではないか、と読書会ではこの部分は読んだ。

ブルデューが『ディスタンクシオン』を出版した1979年から時代は大きく変化した。
経済成長が安定化し、日本では特にこの20年あまりのあいだ、デフレの期間が長く、差異化のチートツールであるクレジットが使いづらい状況が続いた。そういう時代では単線的な「正統性」を皆で追いかける差異化の運動は起こりにくく、価値観の多様化が進んだのではないか、というようにも読んだ。

「正統性」はある程度存在はしているものの、山は一つではなく、いくつもの山があり、それぞれの差異化が生じるようになったのではないか、という話をした。

余談、サブカルしぐさと差異化

サブカルしぐさ」の話をしつつ、僕が「下北沢って何がいいのかわからなかった」と言ったので、下北とはなんぞや、ということをメンバーからいろいろと教えてもらった。

後々、思ったこと。『花束みたいな恋をした』の麦と絹(主人公たち)は修羅の世界で生きているのだろうか、とやや怖くなった。互いが好きなコンテンツが不思議なくらい多かった二人だが、コンテンツの消費は差異化のメカニズムによって増大・高度化していくので、2人のあいだでも差異化は生じていたのだろう。

eiga.com

2人は京王線の府中と飛田給に住んでおり、明大前で終電を逃すところから物語が始まっている。明大前にいたのでは明大の学生なく、明大前はサブカルの人たちの生息地だからだろうと理解していた。例えば、下北沢歩いて行って、 本多劇場スズナリで演劇でも観ているのかなと勝手にイメージしていた。東京のサブカル好きの人たちの文化と動線についてよくわかっていないので詳しい人に確認してみたくなった。

方法論的全体主義

ある人々の行為はあらゆる相互作用や波及作用の外で、ということは客観性のなかで、集団的・個人的支配統御の外で、そして多くの場合は行為者の個人的・集団的利益に反して他の人々の行為にさまざまな外的効果を及ぼすが、そうした効果によって統計的にしか合計されない作用や反作用を通して、この社会構造の再生産は実現されうるのだ(注43)(p.255)。


注43 こうした統計的行動プロセスの最たるものは、パニックや、戦闘における潰走のプロセスである。これらのプロセスにおいては各行為者が自分の恐れている効果によって決定される行動をとってしまうことで、かえって自分の恐れているものに加担する結果になるのだ(財政上のパニックのケースがそれである)。これらすべての場合において、たがいに連関していない個人行動の単なる統計的総括にすぎない集団行動は、集団の利益にも、また個人行動が追求している個々の利益にさえも還元できないような、あるいはそれらに背反するような、集団的な結果に至ってしまうのである(このことは、階級の将来についての悲観的な見通しがその階級に属する人々のやる気を失わせ、階級全体の下降へとつながってゆくようなときにはっきり見てとれる----つまり下降階級の人々は数々の行動によって集団全体の下降に加担してしまうのであり、たとえば職人層が学校教育制度にたいして、若者たちを本来つくべき職からそらせてしまうものとして非難を加えながらも、自分の子弟にはちゃんと学業を修めるようにさせようとしたりするケースがその例である)。(p.428)

方法論的個人主義ではないものがあるという記述である。
フランス社会学だけにというか、デュルケームの「集合意識」「社会的潮流」的な話である。
ただ、意図するところは、文意としては、マートンの「逆機能」とか「意図せざる結果」といったものに近いことが書いてあるようだ。

3章 ハビトゥス生活様式空間

切りの良いところで終わらず、だいたい1回10ページは進むことを目的にしている会なので、そのまま続行。

ハビトゥスとは

ハビトゥスとはじっさい、客観的に分類可能な慣習行動の生成原理であると同時に、これらの慣習行動の分類システム(分割 principium divisionis)でもある。表象化された社会界、すなわち生活様式空間が形成されるのは、このハビトゥスを規定する二つの能力、つまり分類可能な慣習行動や作品を生産する能力と、これらの慣習行動や生産物を差異化=識別し評価する能力(すなわち趣味)という二つの能力のあいだの関係においてなのである。(p.261)

比較的重要な部分。

それはさておき、「趣味」という訳語は少し気をつけなければいけない。原文は"goût"であり、第一義には「味」「味覚」だが、もう少し多様な意味を持つ。例えば、仏仏辞典には次のような意味が掲載されている。

www.larousse.fr

  1. 五感のひとつで、食べ物の味や成分を知ることができる。
  2. 何かの味、味覚で認識できる特性 。
  3. 集団や時代の美的基準に沿って、何が美しいか、何が醜いかを見分ける能力。
  4. 食べ物や飲み物、何かや誰かに惹かれること。

ここでの翻訳語はどちらかというと「嗜好」が近いのではないかという指摘があった。また「趣味がいいですね」の「趣味」であり、英語でいう"hobby"ではない、ということのようだ。英語でも"taste"は「味」を意味しつつ、「嗜好」「審美眼」「センス」「味わい」「おもむき」「分別」といった意味もある。"goût"に該当する日本語はないが、英語であれば"taste"でよさそうだ。

謎の物体

今回の範囲には「察してくださいね」という意図で挟まれた6枚の写真がある。生活空間に置かれた物や衣服などを通して「階級」がわかるという写真なのだが、今回「謎」として残ったのは下記の物体である。

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サスペンダーとは何か

6枚の写真の中にサスペンダーを着用している人がいた。

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そういえば最近の人はサスペンダーをしないですね、という話になって、サスペンダーは文化的にどんな位置づけのものなのだろう、と調べた。

bancraft.ocnk.net

1910年代、労働者のジーンズにはサスペンダー用の吊り止めボタンと、ベルト用のベルト通しの両方が付くようになりますが、1930年代頃から労働者や労働者以外の人もサスペンダーに代わってベルトを用いる事が増え、ズボンも徐々にベルト通しのみが付いたものへと移り変わり、1940年代頃になるとサスペンダーはフォーマルウェアとしてのみ使用されるようになっていきます。

なるほど。

単なる個人的な思い込みに過ぎないが、アメリカ映画で登場するサスペンダーをつけた人は銀行勤めの人が多い気がしている。もしくは弁護士か。

ウォール街』のマイケル・ダグラス

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AppleTV『ザ・バンカー』のアンソニー・マッキー

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階層の高めの労働者ということなのだろうか。

80年代を舞台にした『ウォール街』のマイケル・ダグラスのサスペンダーはベルトループに付けられるタイプである。サスペンダーの先がベルトループに付けられるように二股のパーツが確認できる。色味からも分かるが、これはオシャレ・アイテムである。おそらく、やり手の金融マンの演出アイテムである。
60年代を舞台にした『ザ・バンカー』のアンソニー・マッキーのサスペンダーはベルト・ループにもつけられるタイプではなく、スラックスもサスペンダー用の穴が開いた専用のものだったと思うので、正装の意味合いが大きいのではないかと思われる。この時点ではまだ銀行は買収しておらず、白人専用の不動産を買い付けて黒人に売るという仕事をしていて、良い物件を物色して回っていたので「正装」が求められたのだと考えられる。

人々が高台に住む理由

住居に関する差異化の話について。他にもいろいろと引用できる文献はあるものの、個人的に印象深いものを一つ。

明治25年の『東京遊学案内』の紹介がされている箇所。

上京したら衛生に注意しなければならない。とくに肺結核は不治の病である。風邪のとき感染しやすいから風邪をひかないこと。また脚気も危険な病気である。湿度の高い下町を避けて、高台にある山の手に宿をとるのがいい。とくに学生は運動不足になってさまざまな病気の原因になる。学校から遠隔の地に宿所を定めるのがよい。(旧新書版pp.59-60)

湿度の高い下町は結核脚気の原因になると考えられていたという例。金のある人は高台に住んでいたが、この20年くらいで、交通の便の良いところに住むようになってきたという話をした。田園調布や芦屋も価値が下がった、など。歴史のある学校はしばしば高台にある話はしなかったが、古くからある教育施設が高台にある理由のいくらかは、衛生を考慮してのことである。

さて、最近人気の住宅地について。首都圏は大きな街が多くあるので、分かりやすい例を挙げるのが意外に難しい気がするが、京阪神だと梅田・京都・三宮という比較的分かりやすい少し離れた人口密集地があるため、分かりやすい気がする。

www.nikkei.com

京阪神では、西宮北口が最近はだいたい首位を取っている。三宮にも15分程度、梅田にも15分程度で行ける好立地の上、阪神淡路大震災で甚大な被害を受けて再開発をされた土地であるため、新しいマンションや新しい商業施設など、最近の生活にフィットした街づくりがしやすかったという事情もある。

nishinomiya-gardens.com

コロナ禍で都会にそれほど近いところに住まなくてもいい、ということで時代もやや変わってきたのだろうか。武蔵小杉の浸水に続き、先日の地震でエレベーターの動かなくなったタワマンの不便さが報道されていたが、タワマンの流行にも陰りが見え始めるのだろうか。

タワマンの話をしているとバラードの『ハイ・ライズ』を思い出してしまう。
映画化されていたことを今知った。面白いのだろうか。

eiga.com