井出草平の研究ノート

ブルデュー『ディスタンクシオン』輪読会第28夜 覚書

旧版268ページ、普及版287ページから。

諸空間の相同性 L’homologie entre les espaces から。

卓越化利益 « des profits de distinction »

卓越化利益という用語はディスタンクシオンに何度か登場する。

正統的な文化的財を独占しそれによって得られる卓越化利益を追求しようとする点では共通しているのだということを、忘れてしまいがちである(p.270)


この利益のほうもその内容はさまざまで、すぐに現われる、あるいはあとで発揮されてくる「肉体的」利益(健康・美容・体力----この体力にも、ボディービルによって目に見えるかたちで鍛えられるものと、衛生法によって目に見えないかたちで養われるものとがある----など)、経済的・社会的利益(社会的地位の向上など)、各スポーツの分布上の価値や位置づけ上の価値(たとえばボクシングやサッカー、ラグビー、ボディービルなどは庶民階級を思いださせ、テニスやスキーはブルジョワ階級を、そしてゴルフは大ブルジョワを思いおこさせるといった具合に、それがどの程度めずらしいスポーツであるか、またどの程度はっきりとある階級に結びついているかによって、各スポーツに生じてくるあらゆることがら)に結びついている象徴的利益(これにもやはり、すぐに現われるものとあとで現われるものとがある私そして身体そのものに生じるさまざまな効果(たとえばスマートさ、陽焼け、多少なりとも外見に現われてくる肉付き)によって、あるいはある種のスポーツ(ゴルフ、ポロなど)が形成している高度に選別された集団への加入によって獲得される、*卓越化利益などがある。(p.32-3)


これらの差異は、まず第一に〔自分を他者と比較するにあたって〕それ自身厳密でありかつ厳密に検定できる能力に訴えかける度合いが少なく、文化との一種の親しみ深さといったものを引き合いに出すことが多いほど、そして第二に、最も「学校的」で最も「古典的」な世界から遠ざかり、学校という市場においてその価値を受けとりはするものの、学校によって教えられることはないために、数々の機会にきわめて高い象徴利潤を生み、大きな卓越化利益をもたらすことができるいわゆる「自由」教養のなかでも、より正統性が少なくより「危険な」分野のほうへ踏みこんでゆけばゆくほど、それだけ大きく明白なものとなる。(p.98)


それは単に、俳優よりは演出家、古典よりは前衛といったようなうまい投資の土俵や文化投資の形を見つける感覚とか、あるいは結局同じことになるけれども、投資をおこなうべき時やひかえるべき時、そして卓越化利益があまりにもあてにならなくなった場合に投資の土俵を変えるべき時を見定める感覚であるだけではない。(p.143)

卓越化(差異化)によって生み出される利益のことである。

翻訳の変更 親族→縁者

旧版から普及版で変更されている点。僕が読書会に参加してから初めてではないかと思う。

該当箇所は以下の箇所である。

支配集団の人々は、芸術にたいして社会界をきっぱりと否認することを要求し、ブルヴァール演劇や印象派絵画に象徴されるゆとり・気楽さの快楽主義的美学へと向かう傾向があるが、被支配集団の人々はこれとは逆に、美学のもっている本質的に禁欲主義的な側面において美学と結びつくため、純粋さを追求するとか純化するとか、衒いを捨てるとか装飾のブルジョワ趣味を拒絶するとかいった名目のもとにおこなわれるあらゆる芸術革命に、加担する傾向がある。というのも貧しき親族としての自分の立場ゆえにもっている社会界にたいするさまざまな性向によって、彼らはさらに社会界というものを悲観的にとらえるようにしむけられてゆくからである。(p.270)

「貧しき親族」は原文では«parents pauvres»である。

www.larousse.fr

parentsは両親のことである。英語も同じ綴りで同じ意味である。フランス語ではやや古い用法として叔父や従妹など親族を含む意味もあるようだ。英語でもあると言えばあるだろう。こちらの意味で旧版は翻訳されていた。その訳だと«parenté»ではないのかという気もしないではない。しかし、普及版では「縁者」という語義通りではない訳になっている。

この文章の意味は、支配集団がメインストリームの文化を享受する一方で、被支配集団はハイカルチャーに対する抵抗的な文化としてのサブカルチャーの担い手になるという話である。

parents pauvresを両親と翻訳すると、両親の影響で抵抗的な文化の担い手になるという意味になるので文脈的におかしいし、親族と翻訳しても、フランスはそれほど血族で集まる文化ではないし、縁者という訳が文脈的には一番よさそうだ。ただ、それほど意訳してもいいのか、という疑問は残る。それとも、単純に被支配階級が再生産されるという親と子の話として捉える方が正しいのだろうか。どういう意味で解釈するべきか、これ以上理解する能力がないの仕方ないのだが、理解ができればいいのかな、という気はする。

ブルヴァール演劇・印象派絵画

kotobank.jp

フランスの通俗喜劇の呼称。ブールバールは大通りを意味する普通名詞であるが、多くの変遷を経て今日では、パリのいわゆるグラン・ブールバール周辺の商業劇場で上演される大衆向けの通俗的な演劇をさすようになった。

支配集団はブルヴァール演劇や印象派絵画を好むということだが、図6で資本量が最も多いのはルノワールだった。やや右下にブルヴァール演劇も書かれてある(https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/iDES/20210926/20210926135949.png)。この支配集団は差異化メカニズムで文化資本を高めている層ではなく、経済的資本量が単に高い層のことのようである。

「貧しき親族」の出身の者は経済的資本量が単に高い層が好む大衆グループでもなく、文化資本を高める差異化の闘いをするグループでもなく、抵抗的な文化グループに入る傾向がある、という話のようだ。

余談『勝手にしやがれ』とルノワール

ルノワールというと、読書会は関係ないのだが、少し解けない謎がある。
ジャン・ポール・ベルモントの訃報があったのでゴダールの『勝手にしやがれ』を観たのだが、ジーン・セバーグが下宿にルノワールのポスターを貼ろうとする場面がある。

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貼ろうとしているのは『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』と呼ばれている作品である。印象派展を離脱しサロンに回帰したころの作品で、筆触分割もかなり抑えめになり、改革者でなくなったルノワールを代表する作品である。

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ja.wikipedia.org

部屋には他にも絵が貼ってある。しかも大小さまざまなサイズで不自然なほど大量に貼ってあるのだが、その絵すべてがパウル・クレーの絵なのである。ゴダールパウル・クレーに影響を受けているというのは前提としてあるにせよ、場違いなルノワールを貼ろうとしていのかがわからない。

ディスタンクシオンの文脈だと、クレーは当時も大衆芸術ではなく、今も大衆芸術には含まれていない。日本もフランスもたいした違いはないだろう。ルノワールはその名前である程度、展覧会に人が呼べるほどには大衆芸術である。クレーは10年ほど前に単独の大きな巡回展があったが、おそらくそんなに動員はできていない(知らないけども)。

www.artm.pref.hyogo.jp

さらに余談になるが、クレーそのものは大衆化していないが、クレーのいくつかもモチーフはエヴァンゲリオンで使われているため、思いがけない形で大衆化している。これは有名な話かと思ってググってみたがほとんどヒットがなかった。ただ、もちろん気づいている人もいて、こちらのブログを書いている方などはかなりの精度で指摘をされている。

atalante.exblog.jp

形式と実質 La forme et la substance

おそらくカントの議論のアナロジーで捉えてよいと思われる。

エンゲルの法則

kotobank.jp

エンゲル係数は、19世紀のドイツの経済統計学者エルンスト・エンゲルにちなむ。彼が、ザクセン王国プロイセン王国の統計局長を歴任した際、家計調査の結果から見出した、「所得が高くなるにつれ、エンゲル係数は低くなる」という法則が、「エンゲルの法則」として知られている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/527e125916fdf2399e438c91b9bdf276859a13f7

エンゲル係数はよく聞くが、エンゲルの法則というのは最近あまり聞かないな、という印象である。

贄沢趣味と必要趣味(または自由趣味)goûts de luxe (ou de liberté) et les goûts de nécessité

消費行動の領域において、またそれを越えたところでも観察される差異のもとになっている真の要素は、贄沢趣味(または自由趣味)と必要趣味との対立である。
前者は必要性への距離の大きさによって決まる物質的生活条件、すなわち資本を所有していることで保障される自由さ、あるいは時に言われるように安楽さによって定義される物質的生活条件から生まれた人々に固有のも のである。いっぽう後者の趣味は与えられた生活条件に自らを適合させてゆくものであり、まさにその事実において、自らがいかなる必要性から生まれてきたものであるかを物語っている。(p.)

必要や必然という概念は一般的な意味とはやや異なっている。このあたりカントが引用されていたり、カントの用語が使われているので、カント的に読めよ的な書き方がされている。

Notwendigkeit(独)/Necessity(英)/Nécessité(仏)は日本語では必然性と翻訳することが多いが、ディスタンクシオンでは必要や必要性と翻訳されているので、そのあたりは読み替えが必要である。

カント『純粋理性批判』では下記のように書かれている。

「現実との整合性が経験の普遍的な条件に従って決定されるものは必然性である」(A218/B266) https://hume.ucdavis.edu/phi175/modalec.html

カントはわからんという話でもあるので、哲学一般での必然性とは何かというと、wikipediaに項目があった。

ja.wikipedia.org

「そうなることが確実であって、それ以外ではありえない、ということである」
(岩波 『哲学・思想事典』、p.1317-1318 『必然性』、高山守 執筆)

ディスタンクシオンを読む上ではこれで十分そうだ。

カントの言う「野蛮趣味」

そして本質主義的・反生成論的である支配者的な物の見かたは、必要趣味(カントの言う「野蛮趣味」)をその経済的・社会的存在理由から切り離すだけであたかも生来の傾向であるかのように転換し、それによって意識的にせよ無意識的にせよこれを自然化してしまうものであるが、このときに及ぼされるイデオロギー効果についておよその理解を得るためには、たとえば献血についての社会心理学的実験を思い起こしてみれば充分であろう。(p.274)

調べる必要もなさそうだが、おそらく『判断力批判』(223)あたりではないかと思われる。

どんな趣味でも、その好みが魅力や感情を混ぜることを要求するならば、ましてやそれを承認の基準とするならば、野蛮なままである。
Der Geschmack ist jederzeit noch barbarisch, wo er die Beimischung der Reize und Rührungen zum Wohlgefallen bedarf, ja wohl gar diese zum Maßstabe seines Beifalls macht.
純粋な趣味の判断とは、魅力や感情に影響されないものである。
Ein Geschmacksurteil, auf welches Reiz und Rührung keinen Einfluß haben

日本語版が手元にないので英語版からの翻訳をしたが、趣味の話をしていて野蛮となるとここしかないのではないかと思う。

ちなみに、趣味(日)/Geschmack(独)/taste(英)/goût(仏)である。

必要趣味は欠乏

必要趣味は本来的に、欠如によって、すなわちそれが他の生活様式とのあいだにもっている欠乏の関係によって、ネガティヴなかたちでのみ定義されうる生活様式しか生みだすことができない。(p.274)

「そうなることが確実であって、それ以外ではありえない」ことが必要なのだから、欠乏の関係によって規定されるということだろう。

マルクス資本論』における「しるし」

「神の選民がその額に、エホバの民であるというしるしをつけていたのと同じく、分業は工場労働者に、これを資本の所有物とするしるしを刻印する」。マルクスが〔『資本論』の中で〕語っているこのしるしこそ生活様式そのものにほかならず、最も貧しい人々はこれを通して、その自由時間の使いかたにおいてまで自らをじかに露呈するのであり、そうやってあらゆる卓越化の企図の引き立て役となり、また完全にネガティヴなかたちで、趣味の絶えざる変化のもとになっている上昇志向と卓越化の弁証法的関係に加担すべく運命づけられているのである。

「しるし」は«Ce cachet»である。

マルクスの方の引用がどこかは正確には分からないが、おそらくヨハネが引用されているあたりのことだと思われる。

「彼らは心を一つにして己が能力と権威とを獣にあたう。この徽(しるし)をもたぬすべての者に売買することを得ざらしめたり。その徽章(しるし)は獣の名、もしくは其の名の数字なり」(ヨハネ黙示録、第一七章一三節および第一三章一七節)。
貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で、種類のちがう労働生産物がお互いに事実上等しく置かれ、したがってまた、事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は、商品性質の中にねむっている使用価値と価値の対立を展開させる。この対立を、交易のために外的に表示しようという欲求は、商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。そして一易独立形態が、商品を商品と貨幣とに二重化することによって終局的に確立されるまでは、安定し憩うことを知らない。したがって、労働生産物の商品への転化が行なわれると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行なわれる。(岩波版1巻p.156-7)

実際のヨハネはこちら。

ja.wikisource.org

ブルデューマルクスの見解に文化資本を加え、現代的に修正していこうとしていたのがよくわかる箇所かもしれない。

庶民階級の食べ物

実質的な食物、なかでもパンやジャガイモや油脂類など、重たくて粗野で太るようなもの、あるいはワインのような大衆的なものに多くの金をさく一方、服装や身体の手入れ、化粧品や美容などに使う金は最も少なく

収入の少ない人ほどジャンクフードなどを食べるという話があるが、それと同じ話が1979年の段階で出ているのは少し驚いた。「ブルデューも言ってるよ」みたいなのも聞いたことがなかったので、やはり文献はしっかりと読まないといけない。

庶民階級は「服装」などには無頓着だと書かれてある。確かに、一昔前(10年前とか?)のフランスでも確かに安価でそれなりの服を買うのは困難でC&A(https://www.c-and-a.com/eu/en/shop)くらいしかなかったと思う。現在はユニクロが進出している都市もあるので、安価でそれなりの服も買えるようになっているはずだ。

ユニクロは「服によって現わされる階級を取っ払いたい」と語るクリストフ・ルメールらとの協業ラインのユニクロUも販売している。服装という点では、資本がなくても階級を意識せずに服を着ることができるようになったのではないだろうか。

www.houyhnhnm.jp

庶民階級の行動を嘲笑するブルデュー

混み合っているキャンプ地にテントを立てに行ったり、国道沿いにピクニックをしに行ったり、ヴァカンスに皆が出発して渋滞しているところヘルノー5やシムカ1000で乗り入れて行ったり、あるいは彼らの意図に合わせてあらかじめ専門業者が規格品で大量に準備しておいたレジャーに身をまかせたりといった具合に、きわめて発想の貧困なこうした「選択」をおこなう(p.275)

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フランス人のことをよく知らないが、フランス人もこういう感じのことをしているようだ。

個人的にはこの手の話を聞くと豊島園を思い出す。

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ニュースで豊島園のプールを見るたびに、何をしに行っているのかと不思議に思ったものだ。

「専門業者が規格品で大量に準備しておいたレジャー」はバスツアーとか、ヨーロッパ周遊2週間10か国みたいなものだろう。あのようなツアーは参加したことがないのでよくわからないが、大変そうだ。ブルデューは、「「休息することを知らず」に「いつも何かすることを見つけ」る」と書いているがまさしくそういった感じである。

ルノー

また車の話が出てきた。図5と図6(https://ides.hatenablog.com/entry/2021/09/26/141757)には含まれていない車である。

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ja.wikipedia.org

fr.wikipedia.org

1972-1984年のあいだ生産されていた。558万台生産されている。1984年以降はシュペールサンクに変更されている。後席にドアはなく、3ドアタイプである。L: 3521mm/W: 1525 mm/H: 1400mmという大きさからみても、大きな車ではない。比較的、安い価格で買うことができた大衆車という位置づけでよいのだろうか。

シムカ1000

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ja.wikipedia.org

fr.wikipedia.org

1961-1978年のあいだ生産されていた車である。194万9407台生産されたようだ。4ドアのセダンタイプである。前後が分かりにくいデザインだという印象はあるが、今、これが日本を走っていたら、けっこうオシャレなのではないかとおもった。

フランス語のWikipediaには下記のように書かれてある。

シムカ1000はシトロエン・アミ6、ルノー4という2台の小型フランス車と同じ年に発売された。主にリアエンジンを搭載したルノー・ドーフィン、次いでルノー8と競合した。

少なくともルノー5との競合ではなさそうである。

食事の節制という新しい倫理

飲み食いのしかたというのはおそらく、庶民階級がはっきりと正統的な処世術に対立する数少ない領域のひとつであろう。やせるための節制という新しい倫理は、社会階級の上になればなるほど広く見られるものであるが、これにたいして農民層、そしてとくに生産労働者は、楽しい生活というモラルを対置する。(p.275)

1979年の段階で既にこういう形で示されているのは意外だった。

女性のBMIに関してはこの時代に節制の倫理は登場している。

ides.hatenablog.com

40代以上のBMIは増加していき、30代以前のBMIは下がってきている。17歳のBMIは横一線であることを考えると、20代になってから「社会的に」「やせ」の圧力がかかっていると考えることが出来る。
30歳代「やせ」に転じるのは1970年代半ば。この世代は「団塊の世代」であり、1940年代の半ば生まれである。40歳代が「やせ」に転じ始めるは1980年代半ば。この世代も同じく団塊世代の前後である。同じく50歳代に転じるのは1990年代半ば。
摂食障害は1960年代あたりに現れ、1970年代に一般化し始める。1970年に15歳で摂食障害になった人を想定すると、彼女は1955年生まれと言うことになる。つまり、「やせ」に転じる世代である団塊の世代とは10年のタイムラグがあることになる。

フランスのデータを探してみたのだが、見つけられなかった。
ブルデューの言っているのは女性だけではなく男性にも節制が求められるようになったということであろう。

次回

旧版276ページ、後から3行目、普及版295ページから。