井出草平の研究ノート

ガーゲン『社会構成主義の理論と実践』


社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる

社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる


心理学における社会構成主義(社会構築主義)の基礎文献。

このことを認めるならば、われわれの考えや行為に確信を与えてくれるのは、個人の心などではなく、関係性であることがわかる。もし、相互依存関係−−意味ある言説の共同生成−−が存在しないならば、「物」も「行為」もそれらを懐疑する方法も存在しない。だから、デカルトの格言は、次のように正しく言い換えなければならない−−「言説あり、ゆえに我あり communicamus ergo sum」、と。(序文iii)


「言説」への準拠の宣言をした文章。理論的な精緻さよりも、象徴的な意味合いが強い。

カントの『実践理性批判』の議論を引用してみよう。カントは次のように述べている−−人が、社会生活を送ることができるのは、当為(何々すべし、すべからず)の観念があるからである。しかし、当為の観念(例えば、「勤勉に働くべし」という観念)は、すでにして、それに反する可能性(「勤勉に働かない」という可能性)を含意してしまう。したがって、社会的行為は、その否定を想定しうる場合にのみ、行為として存立し、理解可能となる−−これがカントの主張である。これと軌を一にする主張を、ヘーゲル(Hegel 1979)の存在と無の概念にも見ることができる。ヘーゲルは、存在をあますこところなく把握するには、その存在の否定、すなわち、その不在をも把握する必要がある、と述べている。つまり、何かを「かくかくしかじか」であると理解するには、同時に、それが別様でもあること、「かくかくしかじか」ではないことを理解する必要がある、というわけだ。(p10)


「社会的行為」のカントによる言及とヘーゲルによる言及。カントの部分sollenに関するもの。カントにおける「普遍的律法」もしくは「道徳」は、社会学では「規範」に相当する。要するに、行為を行うにはその行為以前に前提があり、その前提は社会や集団が与える「規範」であるという考え方である。

グッドマンの言葉によれば、認知ではなく、記述こそが、事実としての世界を構成するのである。(p48)

グッドマン『世界形成の方法』

 第5節 社会構成主義の前提
1.世界やわれわれ自身を説明する言葉は、その説明の対象によって規定されない。
2.世界やわれわれ自身を理解するための言葉や形式は、社会的産物である−−すなわち、歴史的・文化的に埋め込まれた、人々の交流の産物である。

社会構成主義にとって、記述や説明は、あるがままの世界の産物でもないし、個人の遺伝行する関係性の文脈の中でのみ意味をもつのだ。ショッター(shotter 1984)によれば、言葉は、個人の行為の結果でも個人の反応の結果でもなく、共同行為の産物なのである。あるいは、バフチン(Bakhtin, 1981)によれば、言葉は、本質的に、「人と人の間にある」。このことが意味しているのは、理解することは、ある反復的な関係性のパターンに参加すること、あるいはこう言ってよければ、伝統に参加するということだ。すなわち、何らかの関係性を維持することによってのみ、われわれは意味を理解することができるのである。かくして、世界やわれわれ自身についての理解は、あらゆるとき、あらゆか場所で制約を受けている。

3.世界や自己についての説明がどの位の間支持されるかは、その説明の客観的妥当性ではなく、社会的過程の変遷に依存して決まる。
4.言語の意味は、言語が関係性のパターンの中で横能するあり方の中にある。
5.既存の言説形式を吟味することば、社会生活のパターンを吟味することにほかならない。こうした吟味は、他の文化集団に発言力を与える。


マッキンタイアについての言及。

マッキンタイアは、道徳的行為の起源を共同体に求める。すなわち、個人が共同体の生活に埋め込まれ、他の共同体や自分たちの共同体にとって理解可能な自己についての語りを発達させてこそ、道徳的行為は可能となるのである。言い換えれば、自己についての語りがあり、それが共同体の生活に埋め込まれているからこそ、個人は道徳性について責任をもちうるのである。


マッキンタイアは、道徳的行為の焦点を、個人の心から人々の関係性へと移行させた。道徳的行為を維持し、また、それによって維持されうるのは、社会関係に埋め込まれた人々のみである、というわけだ。しかしながら、私の考えでは、マッキンタイアはこの立場を十分に徹底しきってはいない。すなわち、この立場をより徹底すれば、個人は、もはや道徳的議論の中心的関心ではなくなるはずだ。もっとはっきり言えば、もし、われわれが埋め込まれている語りが進行中の相互作用の産物であるならば、道徳的行為の問題は、心の問題ではありえない。(p137)


関係性理論への移行は、政治哲学ではコミュニタリアンへの移行とリンクする。マッキンタイア以前にデュルケムが道徳における関係性理論への移行を述べているが、デュルケムも政治哲学的にはコミュニタリアンに分類するのが適当である。その根拠は、教育論において、デュルケムは諸規則が守られるのは、その諸規則に先んじて共同体への帰属が必須であると述べているからである。デュルケムの「道徳」という用語は、カントの普遍的律法としての「道徳」(普遍的であり、かつ、個のレベルで可能なもの=格律)と対置されて述べられている。つまり、道徳の根拠は、自由主義リベラリズムといった流れで言われる「権利」というものではなく、集団(もしくは社会)にあるというのである。


ガーゲンの場合も同様の方向性を持つ。従って、マッキンタイアの次に引用されるのはテイラーである。

 以上の議論は、ある点で、テイラーの『自我の起源』の議論と軌を一にしている。テイラーは、西洋の自己概念に潜む前提、すなわち、彼によれば、道徳的行為の基盤とされている暗黙の前提を、再構成しようと試みている。

 では、社会構成主義の観点からすると、個人の道徳感情、道徳的推論、価値観、意図などはどのように理解すべきだろうか? このような心的状態への関心は、完全に放棄すべきだろうか? この間題は複雑ではあるが、ここでは、社会構成主義は、これらの用語を放棄するのではなく再構築すると述べておきたい。


以下はデュルケムとの差異。

 社会的表象の場合はより複雑である。デュルケムによるもともとの定式化によれば、社会的表象とは、「共同体によって、行動やコミュニケーションのために精巧に作られた社会的事象」(Moscovici, 1963, p251; 強調は引用者)である。実際、その強調点は認知主義的ではなく、社会構成主義と多くを共有していた。しかし同時に、その焦点はマクロ構造にあり、社会構成主義が関心をもつようなミクロな社会関係にはほとんど関心が払われなかった。(p178)


デュルケムの社会学と社会構成主義は構造を見るか、相互行為を見るかという差異しかないということが書かれている。要するに、社会学はその発生段階から構成主義(構築主義)であったと言って多くの部分は間違ってはいない。ただ、おそらくデュルケムはカント的な世界の認知の仕方(物と物自体、代理表象)の考え方をするのに対して、社会構成主義は代理表象の考え方を退けている(否定も肯定もしない)ところに相違点があるのではないかと思われる。

 しかし、「関係性に基づく自己」に関心をもつ理論家にとっては、社会構造(全体コミュニティ)の概念と、自らの関心との間には隔たりがある。なぜならば、社会構造のような包括的単位は、日常生活における身近な事態からはかけ離れているように見えるからだ。すなわち、社会構造とやらは、常に「舞台裏」にある−−あるのかもしれないが、決して見えない−−、というわけだ。では、自律的な個人の相互作用としてでもなく、全体性の現れとして見るのでもなく、「関係性に基づく自己」を概念化するにはどうすればよいだろうか? これに対する回答の一つに、関係性を、間主観的相互依存性ないし調和的心性から見る観点がある。ここでいう間主観的関係とは、まずもって独立した複数の主観が存在し、しかるのちに、複数の主観の間の相互作用を通じて、複数の主観の間に共通性や相互依存性が形成されるとする考え方である。(p288-9)


社会学との差異をもう1箇所。社会学はマクロで心理学の社会構成主義はミクロという差異である。この後に引用されるのがミードであり、個人主義の問題が再び指摘されて、その後に好意的にひかれるのがゴフマンとホックシールド。このあたりまで来ると、心理学の構成主義社会学の相互行為論の差異は分からなくなってくる。


精神医学化に関する記述*1。以下は良いことの例。

 精神疾患の言語が社会の中でどのように機能するかについては、言うべきことが数多くあるが、そのすべてが否定的というわけではない。肯定的側面としては、例えば、精神衛生の専門用語は、異質な人を身近なものにし、そのことによって周囲の人々が抱く恐ろしさを緩和するのに役立っている。すなわち、逸脱行動は、例えば、「悪魔の所業」や「理解不能」と見られるのではなくて、一定の基準に基づくラベルを与えられ、それらが自然で、十分に予測可能で、科学にとってはありふれたものとみなされる。同時に、こうした馴致の過程によって、嫌悪や恐れの感情が、身体に疾患をもつ人に対するような、人道的で同情的な反応を呼び起こす。実際、われわれは、意図的に妨害をしていると思われる人に対してよりも、「病気」で苦しんでいる人に対して、やさしく共感的になる。さらに、精神衛生の専門領域は科学の一分野であり、科学は問題を解決する進歩的な活動であるとみなされているがゆえに、科学的ラベル付けは、未来に対する希望をももたらす。すなわち、今日の病気が永遠に続くのではないかと思い悩む必要がなくなる。


「異化しつつ受け入れる」機能を精神医学の言語は持っているという。
次は良くないことの例。

ラブジョイは、この診断を、癌と宣告された人と比べてみた。「もし、癌が不治の病であった時代に、癌という病名で呼ばれたら、どう思うだろうか? もし『癌ならば自分たちにできることは何もない。悪すぎる。癌を治療することはできないから、病院に送ろう』と言われたとしたら」)。すなわち、精神疾患のラベルを貼られることは、自己不備の生涯を送る可能性を意味している。(p201)

 ここで問題なのは、単に精神疾患にラベルを貼ることだけではない。「精神病」の形態が、メディア、教育プログラム、公的会議などで描写されると、精神病の症状はモデル(典型)としての役割を果たすようになる。実際、人々は、いかにして精神病になるかを学習する。例えば、専門家の間で「拒食症」や「過食症」という用語が広まり、それが人々に知られるようになったために、一般の人々の間には「摂食障害」がなるかもしれない症状として広まった。あるいは、「鬱病」という用語が一般的になったために、失敗や欲求不満に直面したときに、人々は落ち込むのが当然であるとするような文化が育まれた。そのような文化の中では、もし失敗や欲求不満に対して「抑鬱」ではなくて「冷静」や「喜び」を表現するならば、かえって、いぶかしい目で見られる。(p209-10)


精神医学言説の普及によって、障害(disorder)の形式が広まってしまう危惧について。確かに、雑誌の特集を読んで「摂食障害」になってしまいましたという人はいる。

心の中の経験を他者が観察することはできないから、内界を表現する言語形式が、外界を表現する音譜形式のような確度の高い記述をなすことは困難である。ヴィトゲンシュタインは、この点を積極的に考察した結論として、私的な内的経験(本人にしかわからない経験)を記述する言語などありえないと断言している。そもそも、いかなる合意も前提せずして、言語が成立するのは不可能である。したがって、合意の可能性のない経験を表現する言語は存立不可能なのだ。つまり、言語は、ことごとく、何がしかの合意に基づく公的言語であり、本当に内界(私的世界)を表現する言語形式は存在しえない。かくして、機械論的メタファーにとって必衝の二つの言語形式は、存在不能なのだ。(p229-30)

生じた事象を何であれ語りに含むことができるわけではない。語りに含むことができるのは、物語の結末に関連した事象のみなのである。(p254)


単線的な時間的記述が自明に見えるのは、バフチン(Bakhtin, 1981)の言葉を借りれば、われわれは「単線的」時間依存症にかかっているのだ−−それは、「事象を表現するための基本的な枠組み」(p.250)、すなわち、事象間の時間的・空間的関係を規定する慣習である。「昨日は今日より前である」ことが自明に見えるのは、われわれの文化が時間依存症にかかっていることの帰結なのである。(p255)


この問題はフィールドワークにとっては非常に重要である。単線的な時間規定が文化的な規定であるならば、その批判と回避を込めて、単線的ではないように語ってもらうという方法もあるようにも思えるが、それは単線的に語ることがあって初めて意味を持ち、結局の所、単線的に語ることと何一つ変わらない。既存の方法を否定するノリ以上のものはそこには存在しない。


聞き取りを示す時に、私たちの時間感覚が単線的であるために、記述方法は単線的でなければ伝えることは出来ないということもある。単線的記述をすることと、その批判的記述をすることが等価なのと同じく、まったく別の記述の仕方も等価と言える。ちなみに、時間の文化的規定はデュルケム(ASIN:4003421418)=見田宗介(ASIN:4006001088)の仕事があり、特に目新しいものではない。

 こうした結果は、老化に伴う自然な身体的衰えを反映しており、理にかなっているように見える。しかし、語りは、人生の産物ではない−−語りこそ、人生を構成するものであり、語りによって、人生は様々な内容にもなる。「衰退としての老化」は、特定の文化的慣習にすぎず、したがって、変化しうるものである。この点で、われわれは、人生は虹であるという観点を、社会科学がいかに助長しているのかを問題にしなければならない。(p267)

われわれは、それら多様な語り形式を用いつつ、社会の関係性に参入している。たとえて言えば、熟達したスキーヤーが、斜面にアプローチする際に、うまく下降するための多様なテクニックをもっているのと同様に、われわれは、多様なテクニックで、自分の人生の経験を関係づけることができる。最低限の社会適応がなされていれば、われわれは、自分の人生を、安定的、上昇的、下降的と解釈することができる。さらに、もう少し訓練を積めば、自分の人生を、悲劇、コメディ、英雄物語などとして措くこともできる(Mancuso and Sarbin(1983)による「第二の自己」の議論、Gubrium, Holstein, and Buckholdt(1994)による人生コースの多様な構成についての議論も参照)。「自己についての語り」を構成し再構成する力が増すほど、われわれは、より広範な関係性に効果的に参入することができるだろう。(p268-9)

この説が読みたくてこの本を読んだようなもの。

  • Mancuso,J. C., and T. R. Sarbin. 1983. The self-narrative in the enactment of roles. In T. R. Sarbin and K. E. Scheibe, eds. Studies in social identity. New York: Praeger. ASIN: 0030595428 (Webcat, amazon.com)
  • Gubrium, J., J. A. Holstein, and D. Buckholdt. 1994. Constructing the life course. Dix Hills, N.Y.: General Hall.(Webcat, amazon.com)

 このように「自己についての語り」が絶え間ない交渉によって作られているという事実は、関係性のもう一つの特徴−−アイデンティティ互恵性−−によって、さらに複雑なものとなる。これまでは、語りが、あたかも特定の主人公のみの時間的軌跡に関連しているかのように論じてきた。しかし、この考え方は拡張されなければならない。語りの中に典型的に織り込まれている事象には、その主人公の行為だけでなく、他者の行為も含まれる。多くの場合、他者の行為は、語りの中で結びついている事象に、きわめて大きな影響を与える。例えば、自分が常に正直であるという記述を正当化する場合には、友人からのカンニングの誘いを自分がいかに拒否したかを語らねばならない。また、功績についての語りを正当化する場合には、他者があなたとの競争に敗れたことを語らねばならない。あるいは、能力が減退していることを語る場合には、若い人の活動が機敏であることを語らねばならない。これらすべての例において、他者の行為は、あなたの語りを理解可能にする上で、必須の役割を果たしている。この意味で、自己の社会的構成には、あなたという主人公のみならず、共演者が必要なのだ。(p276)

 他者へのこうした依存性は、行為者(あなた)を不安定な相互依存に置くことになる。というのも、あなたのアイデンティティが、あなたの「自己についての語り」における他者の位置づけを当の他者が承認するかどうかに依存しているのと同様に、他者のアイデンティティも、あなたがそれを承認するかどうかにかかっているのだから。あなたが、「自己についての語り」を維持できるか否かは、基本的に、他者があなたとの関係性の中である役割を演じることに同意するか否かに依存している。シャツプ(Schapp, 1976)の言葉を借りれば、われわれ一人一人は、他者の歴史的構成の中に「編み込まれている」し、同じことがどの他者についても言える。語りのこうしたデリケートな相互依存性が示唆するのは、社会生活は、互恵的アイデンティティのネットワークである、ということだ。すなわち、人のアイデンティティは、他者が適切な支持的役割を演じる限りにおいて維持され、また、人は翻って他者たちによる構成作業を支持することを求められる。したがって、誰かがそうした期待を裏切るや、相互依存的なアイデンティティの構成は危うくなってしまう。(p277)


Schappの該当書は以下のもの。

  • Schapp, W. 1976. In Geschichten verstrickt zum Sein von Mensch und Ding. Wiesbaden: Hevmann. ISBN:9783465033448

「自己についての語り」は、個人の内面にある衝動が社会的に表出されたものではなく、個人という場を借りて実現される社会的な過程である。(p281)

 以上の心理的構成主義的観点に対して、言語の語用論(詳しくは、第8章で論じておいた)を強調する社会構成主義に立つことによって、語りの様能をよりよく理解することができる。述べてきたように、語りが機能を果たすのは、主に社会的交流の中でのことである。すなわち、語りは、進行中の関係性の構成要素である−−語りによってこそ、社会生活が理解可能で一貫したものとなるし、人々が互いに集まったり距離をとったりできる。特に、自己についての語りによって、われわれは、アイデンティティを確立し、過去を受容し、関係性の慣習に容易に従うことができる。語りがこのような機能を果たせるのは、語りが関係性の中で、先行事象に対する適切な反応を指示したり、どのような事象が後続するのが適切かを指示できるからである。(p329)

意味が生まれるのは、「行為とその補足」という関係性の内部においてのみである。ショッター(shotter, 1993b)の言葉を借りれば、意味は、行為と反応から生まれるのではなく、共同行為から生まれるのである。(p354)

うちの図書館にもありそうだ。

社会構成主義は、従来の研究実践を拡張しようとする。研究の革新のために重要なのは、次の三点である。第一は、脱構築である。そこでは、真実、理性、善についてのあらゆる前提が疑問に付される−−さらに、疑問そのものの前提も疑問に付される。第二は、民主化である。そこでは、科学の重大な対話に参加する人々の範囲が拡張される。第三は、再構成である。そこでは、文化の変容に向けて、新たなリアリティと実践が作り上げられる。このような努力によって、人間科学を、社会生活の周辺に位置する現状から、文化的探求の中心へと推し進めること、それが私の希望である。(p79)

*1:心理学化としてまとめて問題はないのかもしれないが、精神医学の言語体系と心理学の言語体系は異なるので、精神医学化と書いておく