宮島喬『自殺論』


デュルケム自殺論 (有斐閣新書 D 34)

デュルケム自殺論 (有斐閣新書 D 34)


『自殺論』読書会に向けての読書1つ目。訳者である宮島喬による解説本。記述は的確である。良い本である。

『自殺論』は、自殺の研究であるとともに、近代社会における「社会と個人」の関係の病理の診断のこころみでもある。(9ページ)


『自殺論』は自殺の研究に留まらないという指摘。知ってる人にとってごくごく当たり前のことだけど、知らない人は意外に多いか。


やや長くなるが、ここ数ヶ月で最も良く受けた質問にも関係しているので引用。

ところで、以上のタイポロジーに対しては、かねてから、自殺者そのものの分類ではなく、自殺の背景となる社会状態の分類にすぎないのではないか、という疑問が多くの研究者から提出されてきた。たとえば、つぎのような批判がある。「デュルケムの分類は自殺者の分類ではなくて、外部的条件の下に生じた自殺という現象、自殺事件の分類であるから、この分類の結果は、社会状態の候向は示すけれども、社会状態が個人に作用して、個人がいかに反応するかとはまったく関係がなく、ただその社会を構成する人間を全体とした数的な増減を示すに過ぎない。」(中村一夫『自殺』)
たしかに、この批判のいうように、四つの自殺型の分類は、社会状態の傾向を重く見、これを分類のきわめて重要な手がかりとしている。それだけに、「社会的規範の崩壊がAという個人を自殺にはしらせる一要因となりうるとしても、なぜ同じ条件におかれたBという個人は自殺をしないのか」と仮に問われたならば、デュルケムはおそらく返答に窮したことだろう。かれの分類は、たしかにそうした弱みをもっている。けれども、視角を変えて、「かくかくの個人がしかじかの状況と心理的状態の下で自殺をしたが、それにはもっと根本的な深い社会的な要因も作用していたのではなかろうか」という問いが発せられるとき、かれのタイポロジーはこの要因の追求の導きの糸となるのではなかろうか。これもまた、個人の自殺行為の生起のすじ道を解き明かしていく重要な遡及法であるにちがいない。とすれば、デュルケムの分類が「社会状態が個人に作用して、個人がいかに反応するかとはまったく関係ない、と断言できるかどうか、は慎重に検討してみる必要があるといえよう。(13-4ページ)


そもそも、社会学は「社会現象」について語るポジションを持つため、特定の個人がどうなのかということについては語ることもできなければ、語る必要もないと考えるはずだ。


また、社会と個人という説明枠組みを離れた上で、デュルケムやヴェーバーといった社会学者にとっては、現代の社会学者が求める意味的に理解可能な説明は必要がないと考えられていた。いわゆる「メカニズム」や「モデル」の説明ということになろうか。


ヴェーバーは現象の変動プロセスである「合理化」の定義や描写を結局の所、明示的に書くことはなかった(参考)。特に「因果連関」という考え方は形式的であるため意味的なメカニズムやモデルはそもそも無視されていると言っていい。


デュルケムの『自殺論』についても同様である。規準論文のデュルケムに従えば、エゴイスムやアノミーがどのように自殺を導くかなどというのは、そもそもどうでも良いことであったはずなのである。


ひきこもりの因果的説明を試みると、やはりデュルケムへの批判と同じようなものが出てくる。