江戸時代の精神障害


精神障害者をどう裁くか (光文社新書)

精神障害者をどう裁くか (光文社新書)


本の本筋の記述ではないが江戸時代の精神障害についての記述が面白かった。江戸時代から精神障害(主に統合失調症)による殺傷事件は起きており、有罪か無罪は事情によって異なり、約半々くらいの処置がされていたと言うことである。文脈としては、精神障害者心神喪失心神喪失を認める司法というのは、輸入されたものではなく、江戸時代から存在していたというものである。

 当時、香川修徳、土田献翼卿などの医学者が精神疾患についての説を展開した。土田による『癲癇狂経験編』は、わが国で最初の精神医学の専門書であると考えられている。
 また奉行であった根岸鎮衛が収集した奇妙な小話を集めた『耳袋』には、統合失調症、色情狂など多くの精神障害と思われる症例の記載がある。他にも、国学者歌人でもあった伴嚆蹊の『近世畸人伝』などに精神障害者のエピソードが紹介されている。
 香川修徳によれば、精神障害は次のように分類されていた。すなわち「驚」はけいれんを主な症状とする小児の疾患、「癲」は大発作を起こすてんかん、「驚癲」は神経症圏の疾患であり、「狂」は統合失調症に相当していた。「狂」はさらに「剛狂」と「柔狂」に分類されていた。前者は今日の緊張型統合失調症、後者は破瓜型統合失調症に相当している。
 さらに今日の精神遅滞に相当する「痴鵔」、摂食障害にあたる「不食」の記載もみられている。
 次に示すように、喜多相良宅の『吐方論』には慢性期の統合失調症と考えられる症例が報皆されている。

日本橋四日市の新右衛門の妹は年の頃三七、狂乱して二〇年にもなる。髪はぼさぼさで、身は痩せ衰え、肌は垢だらけで、物を手でまるめ、言うことがわからず、奇薬名方も効なく、ここ数年は薬も服していない。(『江戸病草紙』立川昭ニ ちくま学芸文庫) 

 それでは江戸時代において、重罪を犯した精神障害者はどのように処遇されていたのであろうか。 
 結論から言えば、精神陣容を持つ加害者に対してはある程度刑罰を減免すべきであると考えられていたが、実際の扱いは個々の例ごとに異なっていた。殺人事件の加害者においても、死罪となる場合もあれば、今日の心神喪失の規定と同様に無罪放免となる例もみられている。
 こうした扱いの違いは、犯行の状況や加害者の病状により、個別に判断されていたらしい。被害者側に糾弾の姿勢がなく、親族による保護が得られた場合は、赦免になることが多かったようである。
 次の例は、精神障害のために赦免になったケースである。

万治三(一六六〇)年五月九日 本郷六丁目の三郎兵衛は気違になり、女房を斬り殺し、さらに召使の六兵衛と市兵衛の二人にも傷をおわせ、捉えられ、入牢となった。そのご気もおちついたところ、殺された女房の父親の太郎左衛門と当人の父親の甚兵衛とがそろって願い出てきたので、七月二日に赦免となりた。(『江戸病草紙』立川昭二 ちくま学芸文庫

 立川昭二氏による『江戸 老いの文化』(筑摩書房)によれば、江戸の町中でも精神障害者による無差別殺傷事件はしばしば起こり、犯科帳ではそれを「乱気」あるいは「気違」と記裁していた。犯科帳の一つである「御仕置裁許帳」には、この「乱気」あるいは「気違」による殺人および傷害事件が二二例みられるが、死罪は一〇例、赦免は一二例であったという。


統合失調症が割と分類されていたこと、摂食障害にあたる「不食」が記述されているのは興味深い。「不食」(AN-R)についてはDSM-Vのフィールド研究で遺伝子要因についてクローズアップされているようだが、そういうジェノタイプ(遺伝子型)があるのかとふと思ったりもする。とはいえ、現代の痩せ願望ではない別の何かの要因によって拒食というフェノタイプ(表現型)になったのかもしれない。いろいろ考えてみても何かがわかるわけではないが、江戸時代に拒食症があったということや、統合失調症の分類があったという事実は興味深い。