若年非正規雇用の社会学‐階層・ジェンダー・グローバル化 (大阪大学新世紀レクチャー)
- 作者: 太郎丸博
- 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
- 発売日: 2009/06/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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太郎丸博新著まえがきより。
しかし、それでは何のための社会学なのだろうか。真理ためか?ポストモダニズム以後にナイーブに真理に使えることを使命とする気には私はなれない。それでは知的娯楽のためか?『反社会学講座』以後に、ナイーブに「社会学は面白ければそれでいい」などとうそぶく気には私はなれない。そんなに面白い話が聞きたいならば、難波花月にでも行けばよいのである。あるとき非正規雇用について授業で話していたら、ある学生が「いくらこんなことを教室で議論しても、非正規雇用はなくならないし、格差も埋まらない」といった悲観的な意見を述べたことがあった。このようなペシミズムは、私たち社会学者が生み出したものである。社会の将来に対して何の展望も示さず、事実を並べ立てて曖昧な解釈を加えたり、一見面白い「ものの見方」を提示するだけで、社会を改善する可能性について地道に探究することを怠ってきた私たち社会学者が、社会と社会学に対する絶望を生んできたのである。
メタに物事を見ることが社会学の専門知なんだと言えた時代はとうの昔に過ぎている。はてなでも、2ちゃんでもメタにものを見る作法は広く見られる。下手な社会学者よりも切れ物のアルファブロガーもたくさんいる。切れ物のブロガーたちと、社会学者を比較すると、その違いは社会学者は大学に講座をもっているという既得権があることくらいかもしれない(そして残念なことに多くの場合、切れ物のブロガーの言ってることの方が面白いのだ)。大学に講座があると人々からは尊敬されるだろうし、一生に一回くらいは単著が書ける幸運をつかめるかもしれない。給料ももらえるし、生活も安定する。しかし、社会学がそんなものであっていいのかというと、断じて違うと思う。「社会学者の私たちでなければできないこと」を私たちはしているのだ、ということが明言できて、それで初めて社会学者になったことになるのではなかろうか。それが専門知をもった学問としてあるべき姿である。
社会学の専門知について自認せず「社会学っぽいもの」という曖昧な基準で「それっぽいこと」を言って社会学者であると自認する者はたくさんいる。それは残念なことだし、もう歳をとってしまってる人も多いので、考えを改めてもらうのもたぶん無理だ。メタ的な言動が社会学の特権ではなくなった後に残る社会学とは何か?というと、やはり社会を改善する可能性について地道に探究することだという答えが導き出される。おそらくそれしか答えはないだろう。「社会学者の私たちでなければできないこと」を私もしたいと願っている。