井出草平の研究ノート

ガスフィールドによる緒言


コンラッド、シュナイダー『逸脱と医療化―悪から病いへ (MINERVA社会学叢書)』のガスフィールドによる緒言より

この概念を受け入れることは逸脱を承認することであり,このラベルを貼る人々に同意することでもある。人は言うだろう,「私はこれこれしかじかであり、そうでないようになることを願うべきなのです【私が別のところで「気の進まない逸脱者」と名づけてきた存在】。私は病気なのだから悪人ではないとしても、私の苦悩は悪ということになります」と。「逸脱者」という言葉がいかなる道徳的意味を持とうと,同性愛,アへン嗜癖,過度の飲酒を行う者は厳然として「逸脱者」なのだ。多くの飲酒運転による逮捕者が「アルコール依存症者」というラベルを拒絶するのはこうした考察に基づいてである。近年同性愛者が同性愛から「病気」のラベルを削ぎ落とし,それを社会的に受容される別様の性の一形式として代替しようとしたが,こうしたこともまた医療的隠喩が当初思われていたほど中立的でもなく、道徳的なものでもなかったことを示している。


「病気」というカテゴリーを受け入れることについて。


摂食障害」は「病識」の病である(=自身の体型や摂食行動に問題があることを認識することが大切)と言われることがあるが、「病識」を受け入れると言うことは、ガスフィールドが言うように、自身が「逸脱者」であることを認めることになる。


おそらく問題となるのは、「今とは違う状態」(=「治る」こと)を志向するということが、自身の今の状態を否定することにつながりがちということだ。風邪や足の骨折などのフィジカルなものであればそのようなことは起きないが、摂食障害において「治る」ことを望むことが自己否定につながる(=自身を逸脱者と位置づける)という問題がある。


「病識」を拒否する原因は、正確が歪んでいたり、理性的な判断がとれないからではなく、ガスフィールドが言うように「医療的隠喩が当初思われていたほど中立的でもなく、道徳的なものでもない」からだ。端的に言えば「逸脱者」になりたくはないからだ。


もし「病識」が正確に持てたとしても、問題は解決したとは言えない。「治る」もしくは「治る見込み」がたたない限りは、「病識」を持つことは期限未定に「逸脱者」でありつづけること認め続けることになる。


摂食障害の場合には「治る」としても6年とか7年とかの期間が必要であると言われている。投薬の効果もあまり望めない。そうそう簡単に「治らない」。少なくとも「治る見込み」をはじき出すのは難しい。


もちろん「治る」という言葉を使うかは別にして、状況を改善しようと思うなら状況把握は正確に行う必要がある。そのことは踏まえた上で、尚も、「病識」をしっかり持って「逸脱者」であることを受け入れたのにもかかわらず「治らない」というのは、患者側から言うと割に合わないということは言うべきだろう。せっかく逸脱を認めたのに、誰も助けてくれないというのは約束が違う、となるはずである。


「どうしたらいいんでしょう?」というのは摂食障害の当事者から発せられることが多い言葉だと思うが、これは本当に「どうしたら良いか分からない(誰も教えてくれない)」という意味だけではなく、逸脱者であることを認めたのに誰も助けてはくれないという非難が含まれているのではないだろうか。


この辺りに摂食障害の難しさがあると思うし、同じ難しさが「ひきこもり」にも同じ形で存在している。