井出草平の研究ノート

ベック・再帰性・再帰的近代化


グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答


読書会の本。訳者解説から引用。執筆は川野英二氏。
ベックの概念が端的にまとまった解説だ。

科学化の弁証法とは「理論と実践の境界づけの変容」のことである。現代の科学は理論と実践が境界づけられる「第一の(単純化)の科学化」から、その境界線が変容する「第二の(再帰的な)科学化」の段階に達しつつある。第一の科学化の過程では、科学と実践を制度的に境界づけることによってその内部で知識を独占し、素人とは一線を画すことが求められていた。ところがその一方では、科学が発展するにつれて」その成果がもたらす副次的結果としてのリスクが生じる。科学はみずからの生みだしたリスクを対象とし、さらにはみずからの存立基盤そのものも間い直すことを迫られる。自己の生みだしたものに直面し、それに対応せざるをえなくなることをベックは「再帰性(Reflexivität)」と呼ぶ。この再帰的科学化の段階では、科学と実践との境界線が変容を迫られるのである。このようなべックの科学像は、自然科学だけではなく社会科学にも当てはまると考えられている。再帰的近代では、社会学もまたその知識を制度化された社会学の内部だけではなく公共圏とのかかわりにおいて生産せざるをえなくなる。従来の学問と実践もしくは公共圏とのあいだの境界線が引き直されざるをえないのであれば、社会学の場合も実践との境界線は変容を迫られるのである、と。

現代の新しいリスクは産業社会から生まれたものでありながらも、当の産業社会そのものの制度的基盤を揺り動かす。これは近代が失敗したからではなく、近代化が成功した結果として、つまり近代化の意図せざる副産物として生じたものである。そこからベックは、「リスク社会」の到来と同時に近代社会の諸制度そのものが転換するという「再帰的近代化(reflexive Modernisierung)」の理論を構想する。第一の近代として形成された国民国家福祉国家、国民経済、核家族、生計労働(職業労働)などの諸制度は、近代化の過程で副次的に生じたグローバル化、個人化、失業の増大などの結果を前に変容せざるをえなくなっているのである。

近代化の結果問題に直面した制度の自己変容の過程で、第一の近代で形成された「境界」は設定し直さざるをえなくなる。ベックによるとポストモダン論と再帰的近代化論の相違はこの点にある。つまりポストモダンでは近代における境界を乗り越え、侵犯するとみなされるが、再帰的近代では、個人と制度の決定が新たな境界線を引き直す実践となり、その境界もまた近代化のダイナミクスのなかでつねに更新されていく。第一の近代では産業的近代の境界である自然と社会、男性と女性、労働と失業、知識(科学)と非知(素人)など基礎カテゴリーの区分が自明化されるが、第二の近代ではそれらの境界線が自明性を失い、新しいカテゴリー区分が必要とされると同時に、その新たな境界も虚構のものとしてふたたび境界線が引き直される可能性のあることが前提とされる。
 この境界を新たに設定しなおす実践は、第1の近代で生じた結果をどのように克服するのかという課題への取り組みでもある。「リスク社会」、「個人化」、「グローバル化」、「市民労働」など、ベックによる数々の概念の提起は、第一の近代で生まれた概念がその実質的な意味を喪失するなかで、新たな概念を生みだすことによって境界の再定義を行う試みであるといえるだろう。近代化の意図せざる結果は近代の諸制度に対して「反射的」に変容を強いるが、それに対して新たな概念を提起することによって、「反省的」に従来の制度的境界線の引き直しを行う実践がペックの再帰的近代化論の根幹をなしている。その点で、ベックのいう「再帰性」は、近代が近代化の結果に直面せざるをえない「反射Reflex」と、新たな概念群によって近代をふたたびとらえ直す「反省Reflection」の二重の過程を含意している。


以上、読書会のメモとして。