井出草平の研究ノート

貴戸理恵『コドモであり続けるためのスキル』


コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)

コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)


紹介するのが遅れましたが、出たそうです。


この本について野崎泰伸(id:x0000000000)氏がエントリされてる。

内容を要約すれば、「いまこの世の中で生きるとき、生きづらさを抱えるということを考えると、それには二種類ある。まず一つ目は、この社会の中の構造、すなわち「最近よくいわれる「格差」とか「不平等」」の問題、そして二つ目は、そうした社会に「適応」して「一人前のおとな」になることに関する問題である」ということであろう。そして、貴戸さんは前者については怒るべきだと言い、後者については生きづらい存在を肯定することが必要だと言う。
http://book100.g.hatena.ne.jp/x0000000000/20061111/p1


まだ読めてないが、本人から聞いた要旨と野崎さんの要約から考えるに、次の次の論文あたりに、この話についての反論を書かなきゃいけないなと思った。「生きづらさは二種類ある」というのは単純に2つに分かれるわけではなくて、互いに対立をしているはずである。階級論・階層論など貴戸氏のいう第一の生きづらさに関しては、客観的な尺度(例えば収入)などで測ることが出来るため、その生きづらさは他者へ説明可能である。生きづらさを抱えていない人に対しても、説明をすることが出来るし、説得も出来る。しかし、第二の生きづらさは第一の生きづらさのように客観的尺度で測れないため、他者へ説明をすることが困難である。


また、「ひきこもり」の研究を通して見えてくるのは、第一の生きづらさを持っていない人たち(親の出身階層が悪くない人たち)が、第二の生きづらさを持っている傾向である。もちろん第二の生きづらさが具体的に何かということを示さなくては、こういう議論はできないけども、少なくとも、「ひきこもり」や「摂食障害」というものが第二の生きづらさに相当するならば、第一の生きづらさを抱えなかったがために、第二の生きづらさを抱えるハメになったということはおそらく言えるはずである(ただ、もちろん第一の生きづらさをもっているために、二次的に第二の生きづらさを持つことも容易に想像が出来る)。


第二の生きづらさは、第一の生きづらさでは解消され得ない残りすべて(読んでないが理路ではそうなる)という感じがして、その内実はいったいどういうものなのだろうかと考えてしまう。つまり、この本を読む時はそれを考えて読みたいということで、今日はひとまず終了。