雀部幸隆「わたしとウェーバーとのかかわり」

雀部幸隆,2001,
「わたしとウェーバーとのかかわり」
『図書新聞』2002年4月27日(土)第2579号
「記録 雀部幸隆氏が語るウェーバーとの思想的格闘、その軌跡。
現代の精神史的省察 雀部幸隆」
『図書新聞』編集長米田綱路氏によるインタヴュー。

そこで彼の伝記を読み直し、青年時代の手紙を読んでみると、カントのウェーバーに与えた影響が思想的にはなはだ大きいことが分かってきました。直接には新カント派ですけれども、思想的な意味ではカントの影響なんですね。

いまお話ししてきたことからもお分かりのように、私の思想的な混迷は、ある意味で大学時代、六〇年安保のときからずっと続いています。最初は何とかマルクスで行こうと頑張ったし、『レーニンとロシア革命像』を書いた。先ほどレーニンは偉大だと言いましたが、いくらそうでも、その後がよくなければ、やはりだめです。木はその果によってはかられる。カルヴァンキリスト教はまさにその考えですね。彼は福音主義ですから行為救済論を否定するわけですが、信仰を得た結果の行為を非常に重んじます。


個人的には「マルクスで行こう!」というような言葉が出ることに理解不可能性を感じる。マルクスだからというのではなく、一人の思想家・哲学者の理論によって自己を位置づけようというのが実感としてよくわからない。世代の違いなのか、世代が準拠する思想が存在しなくなってしまったからなのか。

ウェーバーが政治において追求する第一の価値は何かと問えば、それは「国民のLebensinteressen(生活利益、死活の利害)」であり、「ドイツ国家の権力利害」だと


おそらく『職業としての学問』は読めても、『職業としての政治』はなかなか読めない、というのがわれわれ多くの者のいだく実感ではないでしょうか。私の場合もそうでした。私がまだマルクス主義的な信条を持っていた頃はあの講演をすらっと呑み込めないのは当然のことですが、マルクスと訣別した後でも、あの講演はどうしてもひっかかるところばかりでした。それはかつての私のマルクス主義的信条の基層に戦後民主主義の価値観がしっかり根付いており、それがウェーバーの政治論をすんなり受け入れることを拒んでいたからです。


マキャベリとの相違点。デーモンについて。

政治に救済を求めてはいけない、について。これはウェーバーが『職業としての政治』でもどこでも常々強調するところで、これまたまことにその通りなのですが、しかし、この問題についても、すこしコメントしなければならないことがあります。『職業としての政治』はよくマキャヴェリの『君主論』と比較されます。そこには共通項があると見る人が多いのだけれども、たしかに政治を非常に突き放して冷徹に見る点、政治にひそむ悪魔性を自覚している点で、二人は共通しています。しかし、その自覚の仕方というか、自覚してその先は、という段になると、両者はやはり違う。マキャヴェリは、政治に携わることは悪魔と取引することである、だから政治は賢明かつ大胆にその流儀でやる、そこに何の躊躇も覚えないし、また覚えてはならない、覚える奴はProphet unarmed、武器なき預言者の憂き目を味あう、ということになりますが、ウェーバーの場合、政治の悪魔性を自覚するというのは、「気をつけろ、悪魔は劫を経ている!」ということであり、だからこちらも悪魔以上に劫を経なけりゃいけない、ほかならぬ悪魔的なものと対抗するために、ということであって、悪魔性の論理にまったく身を任せるというのではありません。もちろん悪魔の手口をよく知って、場合によっては、というよりも全く多くの場合、こちらもその手口に従わざるを得ない——だから罪を犯さざるを得ない。政治においては、どれほど優れた政治家でも、貸借対照表をつくると、功罪半ばするでしょう——のだが、しかし究極的には、悪魔に対抗することがやはり目指されています。

そのとおりです。マルクス主義は救済論ですね。疎外論についても、疎外というからには、疎外の克服ということを言わなければならない。それは人間の魂の救済であって、宗教や何か他の人間の精神の働きによってなら、なし得るかもしれないけれども、政治や学問ではできない。われわれはその見切りをつける必要があります。民主主義も、日本ではある意味でソフトな代替宗教になっています。戦後の日本では戦前の価値観が音を立てて崩壊し、拠るべきものがなかった。だから、日本国憲法と平和と民主主義が私たちのソフトな宗教のようなものになった。それは一つの救済論です。しかし、それも突き放して見なければいけない。


それと同時に、しかしながら、にもかかわらず、政治においてはやはり聖なるものを残しておかなければならない。さもないと、われわれはニヒリズムの極致に行き着いてしまうでしょう。


ウェーバーの議論からは雀部のいうような実践的結論を導き出すことが可能だ。ウェーバリアンから噴出してくる保守の香りはこの辺りに原因があるのかも知れない。