女は摂食障害に、男は醜形恐怖に


アパシー・シンドローム (岩波現代文庫)

アパシー・シンドローム (岩波現代文庫)


笠原嘉の著作より。摂食障害醜形恐怖の比較。ちなみに『青年期―精神病理学から (中公新書 (463))』ではアパシー(男)と拒食症(女)の比較が載っている。

 青年の自立と個性化の第云ステップは性的成熟に伴って生じる身体の変化に自分がどう対処するかである。次のような少女はその点をわれわれによく見せてくれる。思春期やせ症とか神経性食欲欠乏症といわれる場合である。
 それまでどちらかというと世話をやかすことの少なかった少女が十四、五歳ころから情緒面で少し不安定になるのと相前後して、急に食事を少なくし、やせようと努力しはじめる。ふつうこういう意志的努力はそう長つづきしないものだが、彼女らの場合、涙ぐましい節食の努力はやがて「食べなくても平気」という状態に到達してしまう。体重は早いスピードで減りはじめ、文字通りガリガリになる。こうなると月経がとまる。外からみれば不格好としかいいようのない「やせぎす」に対し本人は平然としている。むしろ、これが自分にちょうどいい、これ以上肥満すると動きにくい、とさえいう。事実彼女たちはその極端なやせにもかかわらずすこぶる活動的である。医学的常識からするとこの体重にまでなればベッドを離れられないか、それに近い状態になるのがふつうである。ガリガリに対する奇妙な無関心と、ガリガリにもかかわらずすこぶる活動力のあること。これが重い身体疾患による「やせ」から本症を区別する重要な鑑別点である。
 今日、この病気は「大人になりたくない」というこの時期の少女独特の心理に発すると解されている。成人女性の身体を自分のものとすることの拒否、セックスをもたない空気のようなエーテル的存在への憧憬。ふつう彼女たちは平均以上の知能と理知的主知的傾向と強情さ、徹底性、完全主義傾向とを合せもつ。その治療は、彼女たちが大人の女性の身体をもつことができるよう、その成長を促すことでしかない。それにはしばしば何年という長い年月を要する。彼女たちの成熟拒否が容易ならぬ程度のものであることは、自分の身体を使っての自己破壊的な拒否であることから十分御推察いただけよう。
 性的存在としての自己を否認することは、もちろん単に右のような心身反応を呈するだけでは完結しない。対−他者、対−世界への関係においても多少とも困難が生れる。何よりもまず両親、とくに女性の成人としての母親との葛藤。同性のきょうだいである姉や妹との葛藤。貧しい友人形成能力、異性出現までの遠い距離等々。
 青年期前半の男女たちは、えてして身体的性的成熟に両面的(アンピヴァレント)な態度をとる。せきを切ったように始まる身体の成長、性器の変化、第二次性徴の出現、月経、射精、自慰、オーガスム。それらは成人を約束するサインであると同時に、不安の源泉ともなる。周囲の成人たちも青年の右のような成熟を目前にして、今までとはちがった、多少とも両面的な態度でもって接しはじめる。青年への大人のある種の揶揄。これに対する青年の側の無器用な羞恥の反応。したがって身体的性的成熟は生物次元の問題であると同時に、すぐれて心理的・社会的次元の問題でもある。いやむしろ実存的次元の問題でさえある。なぜなら青年は「わが身体」とはじめて出会い、わがものとして引き受けることができたとき、はじめて男になり、女になるのであるから。
(中略)
 右のやせ症はかなり極端だが、これほどでなくとも、また必ずしも青年期前半に限らずもう少し年上の婦人にも、十分な医学的根拠なしに相当の食欲不振、体重の大幅な減少、月経不順などをみることがある。興味ぶかいことにこの「やせ症」という反応形式は男子には稀にしか生じない。
 男子青年においても思春期の身体変貌がインパクトになることは女子の場合と同じだが、やせ症のような派手な心身反応の形をあまりとらない。
 身体についてなやむ男子のノイローゼを一つあげよう。

 中学二年(十四歳)のとき友人に「鼻がはれている」といわれ、帰宅後鏡を見て鼻板部がはれていると感じたのがきっかけで、以後これを気にしつづけ、三年生になると日に何回も鏡をみなければならなくなった。しかし学校へは登校していた。ところが高校二年頃より「顔の価値」について真剣に考えるようになってから、鼻板部へのこだわりのみならず、人に対する恐怖心も生じ、バスの中では小さくなり、学校では友人が皆自分から離れていくと思いはじめた。高三(十七歳)でついに頭痛を理由に学校をやすみ、自宅にこもる。「顔をこなごなにして死ぬ」と半狂乱になって母にうちあけ、おどろいた母のとりなしで形成手術の予約をした。これで一安心してしばらく登校できたものの、まもなく「今すぐ手術をうけたい」「早く親が治さなかったから」と例によって母を責めたり自殺をほのめかしたりするため、精神科に母と一緒にやってくることになった。あってみると、精神病的なところの少しもない人である。本人も親に乱暴したりしたことをしきりに恥じる。しかし、鼻板部が世界に二つとない畸型性をもつとする点については、控え自ながら頑として説をまげない。そしてこの人はついに翌年、念願の手術をうけた。手術後「これでいい顔になったか」「俺は顔にしか取り柄がない」と相変らず一日中鏡とにらめっこしていたが、それでも登校だけは始めた。
 母は、中学まで友人も多く元気だったが、ただ潔癖、きれい好き、毛虫嫌いなど小心な面も少なからずある子だった、という。

 われわれはこのようなケースを醜形恐怖とか異形恐怖とよんでいる。現実には決して醜い容貌の人ではない。むしろ「俺には沸しか取り柄がない」というほどに、端正な容貌の人であることが多い。しかも彼らのいう醜さとは、日常的な美醜が論じられるときのような対比可能な差異ではなく、「比較を絶した」「この世に一つしかない」「頼まれな」異形性である。そして彼らが異形性を見出すのはきまって人の限にふれうる「身体表面」である。鼻・限・髪・頭蓋の形・口もと・顎・眉・腕・尻等々。鏡をみて、「これさえなければ」自分は完全で理想的な男であるのに、と考える。異形が実際にわが身に存在しており、単なる思いすごしでは決してないと信じこんでいる点で「妄想」的でさえある。
 このノイローゼは四対一の割で男の子に多い。これほどでなくとも、多くの男の子たちがこの年齢で「わが身」にどれほどの関心をよせるかは、あらためて述べる要はないであろう。毎日ひまさえあれば鏡をのぞく少年たちの自己愛。その裏には「世界の中で自分だけが特別なのでないか」という不安のかくされていることがままある。なお、例としてあげたこの青年は形成手術後もなお紆余曲折を経たのであったが、二十五歳の今日、顔のことをようやく過去のこととし、仕事についており、両親も今では安心していることをつけ加えておこう。
 最後に「わが身体」の受容に際して男女間にあるニュアンスの差に言及しておきたい。女性にとっては、その身体的成熟は男の場合よりはっきりした「外形」をとって、しかも「早く」、そして何よりも決定的なことには突然「内から」やってくるから、いってみればそれに身をゆだねるしか仕方がない。逆に男は、成人を手本にくりかえし実験しつつ、成熟をおのれのものにしなければならないようである。それから、女性にとっては成人的身体をわが物とすることを出来ることなら少しく延期しておきたいとする考え方が平均的なら、男の子は、逆に未だなお十分に成人の身体をもてないでいる自分の恥じるのが平均であろう。大まかだが、臨床の経験からすると右のような公式化ができるのではないかと思う。


なるほど。これは参考になる。