北尾倫彦「落ちこぼれ・無気力・ひきこもり」


「ひきこもり」という単語を使った最初期の論文。1986年の論文である。

北尾倫彦, 1986,
 「落ちこぼれ・無気力・ひきこもり」 
『教育と医学』 34(5):p439-43.

おちこぼれ児に共通する情意面の特徴は、自己評価が極度に低く、劣等感にとりつかれていることである。


セルフエスティームの低下についての指摘。不登校・ひきこもりでは顕著に表れる。不登校・ひきこもり経験を持ちつつも社会へ戻っていった人たちでさえこのセルフ・エステームの低下に長年悩まされることになる。

 普通、受験教育体制によるきびしい競争によって、ひとにぎりの勝者以外は劣等感にとりつかれると指摘されてきた。たしかに、この指摘は一般的な傾向としては正しいが、N君のようなおちこぼれ児にはあてはまらない。彼らは受験競争の圏外にいるのであり、有名校への進学を夢みているわけではない。
 それよりも、人並みに処遇され、承認されることだけを願っているのであるが、このささやかな欲求までもが拒否される状況に置かれ、その結果、きびしい劣等感におそわれているのである。


ひきこもり当事者やひきこもり状態に近い人に話を聞くと誇大妄想のような話をする時がある。この話を真に受けるべきではない。つまり、誇大な目標を立て、妄想をすることに「症状」を見出すべきではないということである。「人並みに処遇され、承認されること」が叶わないために、それを跳ね返すだけの「大きなこと」を言うのである。誇大妄想ではなく、「人並みに処遇され、承認されること」を当事者は多くの場合願っている。

このように考えると、学習でのおちこぼれであっても、集団がその個人を受け容れ、承認することができるならば、情意面の障害にまで進むことはなかろうと思われる。


 しかし、他の面では長所を持っているのであるから、個性的な人間像としてとらえ、異質性を個性として高く評価する空気をつくることが、彼らを救う根本的な解決策となろう。


 教師や級友から受け容れられ、承認されることが無気力化やひきこもりを防ぐのにぜひとも必要な条件となる。きめ細かな配慮が望まれるところである。


対処法。集団と個人に力点が置かれている。非常に本質を捉えている。

 あるとき、新聞社から紹介され、中三の女児Aさんが相談にやってきたことがある。成揖も優れ、まじめそうな子であったが、鋭い目つきで私をみつめ、「なぜ、勉強するのですか」と問いかけた。「先生にはたずねましたか」と聞くと、「先生は、『試験があるから』と言われるのですが、それでは納得がいきません」という返事が返ってきた。


「なぜ、勉強するのですか」という問いかけである。「動機」は「行為」為されている時には問われない。具体的に言うと、望まれるように「勉強」をして、望まれるように「登校」をしていたならば、「なぜ?」という問いかけは起きないのである。「なぜ?」と「動機」が問われるのは、端的に「勉強」することに非常な苦痛があって、出来なかったり、登校することに非常な苦痛があって、出来なかったりするからである。

 従って、無気力化したり、ひきこもりがちな青少年に対しては、現実社会の中での実体験をつませ、勉強とは違う世界の中で自分をとらえ直させる必要がありそうである。カウンセリングを続けるだけでなく、野外合宿の中できびしい生活をさせるとか、各種の奉仕活動に参加させることなどが、もっと真面目に検討されるべきであろう。


「野外合宿の中できびしい生活をさせる」「各種の奉仕活動に参加させる」という処方箋。言いたいことは分かるが、個人的には賛成できない。