- 作者: アンソニー・ギデンズ,松尾精文、小幡正敏
- 出版社/メーカー: 而立書房
- 発売日: 1993/12/25
- メディア: 単行本
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ルーマンのリスク論へのギデンズによる言及。
信頼と確信の区別は、期待はずれになる可能性がその人白身の事前の行動に影響されるか否か、したがって、それと相関するリスクと危険の弁別に依拠している。リスクという観念の発生が比較的新しいため、リスクと危険とを区別できるようになったのはモダニティの社会的特性に由来するにちがいない、とルーマンは主張する。しかし、実際にはリスクと危険の弁別は、人間の活動に影響を及ぼす偶然性の大半が、たんに神や自然がもたらすものではなく、むしろ人間がつくり出すものであるという事実の把握から生じている。
けれども私は、ルーマンによる概念化の細部に必ずしも満足できない。ルーマンが、信頼と確信、リスクと危険を区別し、これらの観念がすべて何らかのかたちで相互に密接に関連すると主張している点は、確かに正しい。しかし、信頼という観念を、人びとが意識して他にとりうる行為の仕方に思いをめぐらすような、特定の状況と結びつけてとらえるのは有効ではない。信頼は、通常、その言葉が暗に意味するよりももっと持続的な状態である。後で提示したいが、信頼は、確信と異なるものではなく、むしろ確信の個別類型のひとつである。同様のことがリスクと危険についてもいえる。「行為を差し控えれば、リスクをおかすことはない」−−いいかえれば、虎穴に人らずんば(可能性として)虎児を得ず−−というルーマンの主張に、私は同意できない。何もしないことはリスクに満ちている場合が多いし、生態系の壊滅や核戦争といったリスクのように、好むと好まざるとにかかわらずわれわれ誰もが直面しなければならないリスクも存在する。さらに、確信と危険との間には、ルーマンが定義づけるような内在的な結びつきはない。危険は、リスクをともなう状況のなかに生じていき、事実、何がリスクであるかの定義づけと有意関連している−−たとえば、小舟で大西洋を横断する際に生ずるリスクは、大型外洋定期船で航海するのに比べて危険要因に差があるため、はるかに大きなものとなる。(P48-9)
ルーマンとの差異をギデンズは「1.自然がコントロール可能なものへと変化としたこと」「2.行為をしないことにもリスクはある」ということだと述べている。2に関しては「ひきこもり」が端的な例だろう。社会的行為を喪失した「ひきこもり」は全くリスクのない生活であるかのように思える。なぜならば、他者との社会的関係がなく、行動的ではないために、事故にあう確率も低いし、人間関係のトラブルにも巻き込まれることもないだろう。しかし、ひきこもることは、人生に非常のリスクを抱え込むことになる。「ひきこもり」が社会参加することに非常な困難があることに典型であるし、長期化して社会に戻れ無かった場合には自殺という終わり方をすることになるからだ。何もしないことはリスクがゼロになるのではなく、むしろ膨大なリスクを抱えることになるのである。
次に1に関して。ギデンズは、現代は不安の時代であるというベタな見解を示しているわけではなく、危険の質の変化を指摘している。
先進工業国の人々、そして今日では一部その他の地域の人々も、前近代において日常的に直面していた危機の一部−−無慈悲な自然の力によるものなど−−からは確かに守られている。他方ではしかし、新たなリスクと危険が脱埋め込みメカニズムそれ白身から生み出されてくる。この新しいリスクには、ローカルなものもグローバルなものもある。人工成分が添加された食料品は、伝統的な食料にはなかった有毒性を持っているかもしれない。環境危機は地球全体の環境システムを脅かすかもしれない。(『モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会』p21-2)
ギデンズは伝統的社会とは違った危険がポスト伝統的社会(後期近代)で生まれていることになる。もちろん、伝統的社会では1000人生まれれば、400人ほどが成人までに死亡するというような社会であったので、危険極まりない社会であった。死亡率に代表される危険性は、ポスト伝統的社会(後期近代)ではかなり低減されていると言えよう。しかし、その近代的な営為(引用文では脱埋め込みメカニズムそれ白身)から生まれて出ているのである。リスクというものを通して見た時の「再帰的近代」とはこのような状況のことである。
後期モダニティの極端な再帰性のもとでは、未来は単に来るべき出来事の予期から成り立っているのではない。「末来」は、知識が、知識自身が形成された環境へと持続的に還流されるという意味で、現在において再帰的に組織される。この同じ過程が、一見逆説的に、当の知識による予期をたびたび混乱に陥れるのである。ハイ・モダニティのシステムにおける未来学の人気は、風変わりな熱狂、古い時代の占い師の現代版ではない。それは、反実仮想的に可能性について考えることは、リスクの評定と評価をする際の再帰性にとって本質的なものである、という認識の現れなのだ。(『モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会』31-2)
ここから、「歴史によって歴史化」していくという「再帰的近代化」というところにギデンズの議論は移動する。
『モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会』の文脈に移動し、キェルケゴールの「不安」の分析との関連性について触れよう。
- 作者: キェルケゴール,斎藤信治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/07/16
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キェルケゴールこの『不安の概念』で、不安は無知によって生まれると語る。つまり「知らない」という状況が「不安」を生み出すのである。キェルケゴールは「不安」を「自由の眩暈(めまい)」として言い表す。
不安は自由の眩暈である。精神が綜合を措定しようとする場合、自由が自己自身の可能性の底をのぞきこみながら同時におのが支えを求めて有限性へと手をさしのべるときに、不安が発生するのである。かかる眩暈のなかで自由は地にうち伏す。(p104)
行為はその行為ではなかった可能性を生み出す。A〜Cの中からAを選択したなら、BやCを選択したかもしれないということを想定することになる。与えられた「自由」は選択を機会をもたらす。
(キェルケゴール)が「不安」を「自由のめまい」として表現する時、そこには、「不安」の本質を言い当てた二重の意味が込められている。第一に、それが「めまい」である限り、それは理性が及ぶことができない領域にあるということである。どんなに理性的であっても、いつのまにか知らず知らすに、あるいは予測不可能な突然のこととして、「めまい」、つまり「不安」が起こるのである。そして第二に、それが「めまい」である限り、どんなに強い不安であったにしても、不安は致命的なものではないということである。不安に落ちいった自分や人を外から眺めれば、それは滑稽である。「不安」は「ユーモア」に勝つことはできない。
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard7.html
キェルケゴールとギデンズと併せるならば以下のようなことが言えるのではないだろうか。ポスト伝統社会(後期近代)において、人間は自然を操作可能で計算可能なものへ変えてきた。人間の力ではどうにもならないものであった自然を、人間の力で操ることが出来るものに変化させつつあるのである。想定可能な危険としての「リスク」という言葉の登場をここに見ている。
前近代社会では人びとがリスクと危険とを弁別できなかったからではない。そうではなく、リスクという概念は、人間に特有な道徳的規則や自然界の原因、偶然の好機が宗教的宇宙論にとって代わって君臨するようなかたちで、人間の下す決断と偶然性にたいする人びとの認識に変化が生じたことの貝体的な現われである。近代的意味での偶然の好機という観念は、リスクの概念と同時に出現した。(p51)
「リスク」という言葉の登場は「自由」の増大と共に現れた。自由は選択をもたらし、自由の増大は選択肢の増大をもたらす。今まで、選択の対象でなかったものまでが、選択の対象になる。飛行機が出来るまで、人間の移動範囲は限られていたため、外国で暮らすという選択肢、気軽に外国旅行をするというような選択は無いに等しかった。今では、このような行為はそれほど難しくなくできる。科学技術の発展によってもたらされた「選択」と「自由」である。
リスクという概念は、キェルケゴールの不安の概念とアナロジカルに語れるものであろう。不安は知ることによって生まれるばかりではない。無知から根源的な不安が生まれるとキェルケゴールは考える。与えられた自由の範囲で、選択をすることによって「そうではなかった」可能性を思い浮かべることだけではなく、選択をしない選択によっても不安は生まれる。同じように、選択をして行為をすることによって生まれるリスクだけではなく、行為をしない選択によってもリスクは生まれる。
アナロジカルに語れるのはそれだけではない。キェルケゴールは「不安」は実存に根源的に存在するものだと考えたが、危険もまた払拭しえないものとして存在しうる。伝統社会では人間の力が及ばないものとして存在してきた自然を、近代では計算可能なものと変化させてきた。しかし、いまだにリスクを計算しつくすことは出来ない。眩暈が理性が及ぶことができない領域にあると同じように、リスクも常に理性が及ぶ範囲を超え続けることになる。偶然やカオスを私たちは予測しつくすことなど出来ない。私たちは、将来にわたって自身に何が起こるか知ることを知りたいと思っても知ることはできない。私たちの無知は、私たちに不安をもたらすのである。
ルーマンに関してはこのあたり。
ギデンズが引用した箇所はここ
They do not exist by themselves. If you refrain from action you run no risk. It is a purely internal calculation of external conditions which creates risk.
- 作者: ニクラス・ルーマン,大庭健,正村俊之
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1990/12/10
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