井出草平の研究ノート

暴力について

暴力性の定義をする仕事があったので、参考に読んだ論文。

宮地尚子,2005「支配としてのDV--個的領域のありか」『現代思想』, 33(10): 121-133.
http://ci.nii.ac.jp/naid/40006926025

DVは「親密領域において個人領域を奪うこと」と定義されている。

以下はその立論の重要な箇所。

DVとは、たんにカツとなって親密な相手を殴る蹴るというものではない。DVとは、恐怖によって親密な相手を支配することであり、親密な関係における恐怖政治である。身体的暴力は見えやすくわかりやすいため、DVの重篤さの指標にはなるが、悪質さは、加害者がどれだけ被害者の心理や行動を支配しているかで見た方がよい。恐怖によって国民を操作する全体主義国家が、あからさまな暴力をいつも必要とするわけではないのと同じである。

暴力的行為という単発的なものではなく、支配をすること、暴力的行為を続けられるシステムがDVだと指摘している。

支配についての記述。

妊娠・出産の時期にDVの危険が高まることも少なくない。DVは身体的暴力、精神的暴力、性的暴力に大きく分けられるが、支配に用いられる主な手法はマインド・コントロールである。監視し、友人や家族との連絡を徐々に絶たせ、孤立化させる。他からの情報や意味づけができないように誘導する。継続的に貶め、無視するとそれらの行為を通して、被害者に自分は価値がない、相手に依存して生きていくしかないと思わせていくのである。カルトや強制収容所、いじめ、拷問被害、独裁国家、人身売買組織などと共通する手法がそこでは用いられている。

DVは親密な相手を支配することである、と既に述べた。支配することは、相手の個的領域を奪い、すべてを親密的領域にするということである。例えば、被害者の携帯電話の通話やメールの送受信履歴、インターネットの履歴をチェックする。日記や反省文を書くことを強要したり、家計を一円まで、レシートを一枚一枚チェックする人もいる。被害者が選んだ服や髪型にはけちをつける。外出の際も、どこに行くか誰といるかを繰り返し確認する。やがて被害者は友人や家族との連絡も控えるようになり、孤立し、ますます加害者の言動に敏感になり、加害者の機嫌に一喜一憂するようになる。

では個的領域をもう少し概念化すると、どういう領域だといえるだろうか。先ほど「自分だけの」という表現を用いたが、厳密には「個的」とは「自分だけの」という意味ではない。それはまず「存在証明から解放された場所」「他者からの評価から逃れられる場所」「否定的視線から自由な場所」「あるがままでいていい場所」であり、「くつろげる場所」「安息・休養の場所」「サンクチュアリ」であり、車で例えるとギアがニュートラルな状態である。「自分が自分らしくいられる場所」といってもいいが、「自分らしさって何?」という疑問をもつ人もいるだろうから「自分らしさって何?」ということも考えなくていい場所」と言い換えておこう。


現在のDVに関する法律の限界について。基本的には、身体的暴力について保護命令の対象になるが、心理的暴力については保護命令の対象にならないという。

日本で2000年にようやく制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に閲する法律」において、DVは主に身体的暴力として定義された。しかし、それは見えないもの、客観的に証明できないものをうまく扱えない(扱おうとしない)法の限界によるにすぎない。
実際、DV防止法が施行されるようになってから、夫が身体的暴力だけはふるうのをやめ、脅しにとどめたり、むしろ言葉の暴力がひどくなったと報告する被害者もいる。2004年の法改正で、身体的暴力のほか、「これに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」、つまり精神的暴力や性的暴力もDVの定義に含まれることになったが、残念ながらこれらは保護命令の対象とされていない。DVの内容は、刑法で言えば暴行罪だけでなく、脅迫罪、名誉段損罪、強姦罪、強制わいせつ罪、詐欺罪など様々な犯罪行為にあたる。しかもそれらが繰り返されているから「重犯」になると思うのだが、それが親密な相手に向けられると、犯罪視されず、平然と見過ごされてしまう。