パスカルの生の倦怠とデュルケームのアノミー

パスカルデュルケームが少し似たようなことを言っている気がしたのでエントリを書き始めたのだが、よくよく確認するとパスカル的な考え方をデュルケームは批判的に取り上げ、嘆いているというのが実際のところだったので両者を引用して比較してみたい。

パスカルの生の倦怠

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

パスカルの『パンセ』から断章139の一部を引用してみる。

人は、いくつかの障害と戦うことによって安息を求める。そして、もしそれらを乗り越えると、安息は、それが生みだす倦怠のために堪えがたくなるので、そこから出て、激動を請い求めなければならなくなる。なぜなら、人は今ある悲惨のことを考えるか、われわれを脅かしている悲惨のことを考えるかのどちらかであるからである。そして、かりにあらゆる方面に対して十分保護されているように見えたところで、倦怠が自分かってに、それが自然に根を張っている心の底から出てきて、その毒で精神を満たさないではおかないであろう。(断章139)

数ヵ月前、一人息子を失い、訴訟や争いごとで打ちひしがれ、つい今朝がたもあんなにくよくよしていたあの男が、今ではもうそんなことを考えていないのは、どうしたわけだろう。驚くことはない。猟犬どもが六時間も前からあんなに猛烈に追いかけている猪が、どこを通るだろうということを見るのですっかりいっぱいになっているのだ。それだけのことでいいのだ。人間というものは、どんなに悲しみで満ちていても、もし人が彼を何か気を紛らすことへの引き込承に成功してくれさえすれば、そのあいだだけは幸福になれるものなのである。また、どんなに幸福だとしても、もし彼が気を紛らされ、倦怠が広がるのを妨げる何かの情念や、楽しみによっていっぱいになっていなければ、やがて悲しくなり、不幸になるだろう。気ばらしなしには、喜びはなく、気を紛らすことがあれば、悲しみはない。(断章139)

断章139は様々なものが含まれているので、この断章のまとめとはならないが、下記の2つの考え方が読み取れる。

  • 生は倦怠である
  • 倦怠の気晴らしによって忘れることができ、幸福になることができる

裕福で自由な生活をしていたパスカルだから捉えられた視点だろうか。生活に追われている当時の大多数の人間にはこういう発想は生まれにくい。

デュルケームアノミー

アノミーというとデュルケームの『自殺論』で取り上げられたことで有名である。

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

アノミーamonieという言葉は、ギリシア語の秩序や法を意味するnomosにaがついて秩序がない状態を意味するamonosが起源であり、1887年に哲学者のジャン・マリー・ギュイヨー『非宗教の未来』の中で使用したことから、当時のフランスではある程度認知された言葉だったのではないかと考えられている。

ギュイヨーは肯定的な意味でアノミーという言葉を使用しているが、デュルケームは否定的な意味でも使用している。

自殺論でのアノミーは明確に定義づけられておらず、センテンスごとに意味が少しずつ違っている。従って、引用箇所によって概念自体のイメージも変化するのがだ、パスカルとの比較で言えば、下記の部分が比較的よいのではないかと思った。

ともかく進歩を、それも可能なかぎり急速な遊歩を協調する説が、一つの信仰箇条となっていった。しかしまた、不安定さの恩恵をたたえるそれらの説とならんで、その説を生む母胎をなした当の状況を一般化するような、新たな説があらわれつつある。それは、生はいとわしいものであるとのべ、生は快楽よりもむしろ苦悩にみちており、人びとをたんに偽りの魅力によって眩惑しているにすぎないとして、生を告発している。混乱が経済界においてもっとも熾烈をきわめているせいもあってか、この説の犠牲者はこの世界にもっとも多い。  実際、工業、商業は、自殺のもっと多い職業にふくまれている。それらは、自由業の水準に匹敵し、しばしはそれをしのいでいる。とりわけ農業にくらべると、前二者の自殺は多い。その理由は、農業が、古くからの規制力がいまなおもっとも強い影響をおよぼしている産業であって、事業熱がいちばん.浸透していないということによる。かつての経済的秩序の一般的な構造はかくのごとくであったにちがいがない、とよく想像させるのはこの農業である。さらにまた、工業における自殺者のうち、雇主を労働者から区別したならば、右の差はもっと大きくなっていたにちがいない。というかは、もっとも手ひどくアノミー状態に冒されているのは、おそらく雇主だからである。金利生活者の法外な自殺率(百万あたり七二〇)は、もっとも富裕な者がもっとも苦悩に苛まれていることを十二分にものがたっている。それは、人びとに従属をしいるものはすべて、アノミー状態のおよぼす効果を経滅してくれるからである。下層階級は、少なくとも上位の諸階級によって制限を課せられている一線があるから、そのことだけからも、かれらの欲望はより限定されている。ところが、その上位にいかなる階級も存在しないような階級のばあい、背後から引きとめてくれる力がはたらかないかぎり、ほとんど必然的に宙に迷いこんでしまうのである。(p.317-9)

デュルケームが批判的に取り上げる発展と共に現れた「生はいとわしいものであるとのべ、生は快楽よりもむしろ苦悩にみちており、人びとをたんに偽りの魅力によって眩惑しているにすぎないとして、生を告発する」説というのは、パスカルの言っていることに近いように思われる。

デュルケームの分析は100年少し前のものだが、現代日本の分析としてさほど違ってはいないだろう。人はある程度の規制がないと幸せに生きていくことができない。最も規制がない金利生活者の自殺者が最も高い。また、雇用主の自殺率の方が高いとも述べている。デュルケームの言葉でいうと「背後から引きとめてくれる力がはたらかないかぎり、ほとんど必然的に宙に迷いこんでしまう」のである。

近代になって普及した「生」の捉え方が、デュルケームよりも何百年も前のパスカルによって記されている。それは、生活に追われず、特権的階級にいたパスカルの特殊な環境によって説明ができるものだろう。また、それ以上に、そのように環境にパスカルがいたからこそ、パスカルの記したものが現代的テーマを考える上でも参考になるのだと考えられる。