高口憲章「拒食と過食の内観療法」『こころの科学』『こころの科学』日本評論社,47-52.
内観療法のコンパクトな説明。「療法」に関しては、詳しくないので、なぜ有効なのかが未だ理解できておらず。
内観とは後述の「内観三項目」に従って行われる自己修養法の総称である。
内観三項目
母親を筆頭に、母親を欠く場合には母親代わりをしてくれた人について「内観三項目」と称する①お世話になったこと、②して返したこと、③迷惑をかけたことの三点について、小学校以前の幼少期・小学校低学年・同高学年・中学校・高校・大学あるいは社会人になってからとライフステージを区切り、それぞれに約二時間を振り充てて調べを進めていく。③を特に重視し、調べの時間配分を1:1:3とする。古い記憶の糸をたどりながら深く深く沈潜し、想起することを求められる。その想起の結果(調べ)を指導者はひたすら傾聴する。
「迷惑をかけたこと」を特に思い出させる。
すべての研修所に共通するのは、摂食障害だからといって技法の変更はしないということと、内観中に摂食障害の症状が顕在化することがほとんどないということである。
摂食障害オリジナルな内観は基本的には存在しないようだ。
また、自分を振り返ることは、症状の悪化にはつながらないという。詳しくないので、不用意な発言になるが、底打ちすることが見込めなければ、この作業は非常に危ない気がする。つまり、自身を苦しめる忘れるべき過去を現前化してしまうからである。
内観を受ける前は以下のように思うのだとか。
自分が哀れだった。いつも、親をはじめ周囲の期待を裏切らないように頑張ってきたつもりだった。でもその期待が、過度の「重圧」となって私をこんなふうにしたのだと思った。なにもかもが恨めしく、全てが億劫になり、必要最低限の人付き合いしかしなくなった。
そして、自分が今まで「人のため」にやってきたつもりだったことが、本当の思いやりからではなかったことを理解して博然とした。私がしてきたことはすべて、周囲の期待に応えるためではなく、人を喜ばせるためでもなく、純粋な自己満足のためだった。
しかし、内観を経ると、変化が起こる。
いったんは、どうしようもなく俗悪卑小でみすぼらしい自分の姿を突きつけられて、落胆虚脱する。が、次の瞬間に、そのような自分に対して母親をはじめ多くの人々がなんと深々と無償の情愛を注いでいてくれていたことかという気づきが必ず生じる。このとき、大きな慈悲に包まれた被愛感に内観者は涙するのである。「こんなつまらない救いようもない私を、人々はなんと大切にしてくださったことか!」と、どん底から高みへとすっと引き上げられる。
わざわざ指摘するまでもなく、これは「信仰」が生まれる過程と全く同一である。
しばしば「内観は知るものではありません。内観はするものです」と言われる。
これも全く宗教と同じ。「内観」の部分を「信仰」と入れ替えると分かり易い。
「宗教」は摂食障害の治療に有効なのではないか、というエントリを昨日入れた(id:iDES:20060322:1142997531)が、この論点と非常に密接な関係がある。昨日のエントリで「ひきこもり」には宗教は有効ではない場合が多いと書いたが、そのような仮定が成り立つならば、ひきこもりと摂食障害でこのような違いがなぜ現れてくるのかという考察が可能となる。
そのためにはひとまず、ひきこもりと宗教は親和性が低いという仮定について詳しく検討する必要がある。
最後に、摂食障害特有の内観について。
摂食障害者の内観では自然発生的に自分の身体や食べ物に対する内観が行われ、私の大切な体を傷つけて体にすまないことをしましたとか、私の命を支えてくれるはずの食べ物を吐き出してしまい食べ物に悪いことをしましたなどと述べられることがある。世界・宇宙の森羅万象に対してまで感謝の念は及び、それらに励まされて生きる境地を目指す。創始者の願いは、今の世に「妙好人」を生むことであったと伝え聞いている。
科学的ではなく、ある種の宗教的(世界に対して意味づけをするという意味で)語られることによって何らかの変化は望めるのかもしれない。「体にすまないことをした」は自身の身体に関する私的所有の一部放棄、「食べ物に悪いことをしました」は物象化の放棄と考えられる。
これらのものが、言表としてのそのままの意味において、順機能を起こすわけではなかろう。つまり、「体にすまないことをした」のでこれからは「体を大切にしよう」という事になるのではないし、「食べ物に悪いことをした」のでこれからは「食べ物を大切にしよう」となるわけではない。
そうではなくて、このような「気づき」によって認識の枠組みがぐらつき、変化することによって、自身の持っている問題への取り組みが変わってくる。それが有効性を持つと理解すべきなんだろう。