中垣内正和「新春 よくわかるパーソナリティ障害」 http://blog.yorodai.com/dr-nakagaito/index.php?mode=res_view&no=1019
精神科医の中垣内正和氏のエントリ。パーソナリティ障害の解説がなされている。
パーソナリティ障害の中で、「ひきこもり」にもっとも近いものは「回避性パーソナリティ障害」になる。
シゾイドのところにはこんなことが書かれている。
なるほど。
境界性パーソナリティ障害のところには暖かい言葉が書かれているが、境界性パーソナリティ障害に該当する人と距離を取れないでいる人にはこの本が良いのではないかと思う。
境界性人格障害=BPD(ボーダーライン・パーソナリティー・ディスオーダー)―はれものにさわるような毎日をすごしている方々へ
- 作者: ポール・メイソン,ランディ・クリーガー,荒井秀樹,野村祐子,束原美和子
- 出版社/メーカー: 星和書店
- 発売日: 2003/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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社会学者はパーソナリティ障害の概念を嫌う傾向を持っているようだ。社会的に「良い」とされているものは社会が変わればまったく違ったものになる。パーソナリティが変だという指摘は、特定の社会で成り立っているだけであって、他の社会に行けば正常といえるかもしれない。このような社会学の相対的な視点がその根拠となっている。ただ、実際に精神疾患を持った人と接する経験を多く持つと、この批判は虚しいもののようにも感じられる。個人的にはパーソナリティ障害という概念は理論的にはどうか分からないが、実践的には間違いなく重要なものだと思っている。
中垣内氏のエントリから少しだけ離れることになるが、統合失調質パーソナリティ障害と「ひきこもり」の関連性について記す。鍋田恭孝氏によると「ひきこもり」は「葛藤モデルよりも欠損モデルに近い」。シゾイド(統合失調質)パーソナリティー障害と「ひきこもり」の相違点は、シゾイドはより自己愛的であり、自分の世界形成に自足し、しばしば誇大妄想性を持つのに比較し、「ひきこもり」にはそのようなものが欠如している。*1
ここで一つ考えられるのは、「欠損」というものをモデルとして持つ「ひきこもり」がもともと欠損的であったのか、それとも、ひきこもり生活が長引き、誰ともコミュニケーションが無い状態の中で生きてしまったために欠損が起こっているのかという点である。卵が先か鶏が先かという問いかけになる可能性があるが、ここではひとまずひきこもり状態の結果として欠損が生まれると理解しておく。なぜならば、コミュニケーションが無ければ欲望は生まれないからである。
社会構成主義的な立場(関係性もしくは言説行為の中に自己がある)からすると、社会的関係性を結ばない「ひきこもり」には自己は存在しない。社会的な関係性が理念的な「ひきこもり」には欠如しているため、関係性の中に自己が現れるならば、「ひきこもり」において、自己は欠損する。このようなことが理論的に導き出される。
社会構成主義以前に支配的であった「パーソナリティ」という考え方に拠ってみても、パーソナリティの不全が指摘できるだろう。秩序(order)が失われた状態である障害(disorder)という状態においても、どのように秩序を失うかという形式が存在している。それらの形式がDSMなどに載っているパーソナリティ障害の類型である。秩序が失われる時にも、その失い方には秩序があるのである。
パーソナリティは社会的なもの*2であるため、社会的に構成されていく。しかし、社会的関係性を失った「ひきこもり」は、そのパーソナリティの構築をする機会を逸し続けてしまう。これはパーソナリティの欠損を意味しているだけではなく、障害(disorder)と呼ばれうるような状態であったとしても、秩序だった秩序の失い方をしていない障害(disorder)に見える。つまり、それが鍋田のいう「欠損モデル」である。それを神経症の概念から捉えるとすれば、「ひきこもり」というものは確かに神経症に分類できるが、それは神経症としては不全(秩序だった秩序の失い方をしていない)ため、「不全型神経症」(鍋田)と呼ぶことになるのであろう。