斎藤環「『ひきこもり』の現在形」,2001 『こころの臨床 a・la・carate』 20(20),162-165
斎藤氏の立ち位置についての説明がある論文。
精神科医が社会的発言をしすぎることは,あきらかに有害である。にもかかわらず,そうしたメディアの側のニーズは高い。ただ,上野千鶴子氏なども言うように,メディアも現実の一部と化している現代において,臨床場面しか見ようとしないナイーブさにも大いに問題はある。とりわけ「ひきこもり」問題のように,めったに受診しないわりには,かなりの数が存在すると推定されるような問題についてはそうである。
「ひきこもり」は臨床単位でも診断名でもない。それは例えば「不登校」などと同様,一つの状態に対して与えられた名前に過ぎない。そこにはいかなる価値判断も含まれてはいない。むしろこの点が「ひきこもり」という存在の曖昧さにつながり,多くの臨床家から敬遠されがちな原因の一つとなっているのではないか。著者が「ひきこもり」の認知度を上げるべくとった戦略は,第1に明確な定義づけをすること,第2精神医学との関連における位置づけをはっきりさせておくことであった。
その上で著者が一貫して主張してきたのは,第一に青少年のひきこもる権利を社会が認めることの重要性であり,この点は当初から変わっていない。社会がひきこもりに対して寛容になればなるほど,「ひきこもり事例」は減少すると予測されるからだ。ただし,そう言い放つのみでは,「不登校は病気ではない」といった主張と同様,正しいばかりで実効性の低いスローガンに終わってしまう可能性がある。そこで著者はさきの主張に加え,次の点についても指摘してきた。まず,慢性化した「ひきこもり」は,しばしば神経症圏内のさまざまな病理の温床になり,治療的授肋なしではそこからの離脱がきわめて困難であること。また,本人がひきこもる権利と同様に,両親がそれをさせまいとして治療的介入を行う権利を保証すべきであること。この権利は,両親が本人の成人した後も生活の場所と経済的援助を保証することと引き替えに生ずるものである。
慢性化したひきこもりは精神医学的治療の対象となり、心理学的援助の対象になるという見解。もちろんここには薬理学的な治療も含まれる。「治療」をすべきであるという価値判断は当初より主張されていることであるし、妥当だろうと思われる。
精神科医が発言過ぎることが問題であるということも述べられている。これは、精神医学的な診断を社会的に広めることによって、精神医学・心理学的なものへすべての物事の原因を還元してしまうことへの批判である。最近では「脳」へすべての事象を還元する潮流がある。大きくは、社会が心理学化というフレームの問題になる。発達障害も基本的にはこの脳の問題である。例えばアメリカのADHDの有病率である2%という数字を持ってきて、生来的に問題のある子どもが2%いると捉えるのは、斎藤氏の言うような臨床の「ナイーブさ」である。
一昔前にはADHDのような状態は珍しいことであったし、授業中に歩き回る子どもはそんなにいたわけではない。しかし、現在では極めて普通にそういう子どもはいる。これは生来的な「障害」を持った子どもたちが短期間で激増したのが原因ではない。社会環境が変化したという所が大きい。つまり、生来的に多動や注意欠陥を示しやすい子どもたちは一定数いたが、社会環境のおかげで昔は表に出ることはなかった。しかし、現在では社会環境が変わって表に出てくるようになったという捉え方である。
発達障害の問題を考える時に重要なのは、問題のどのくらいまでを子ども自身の障害として考えられるかということである。現れた現象をすべて子ども自身の障害へ還元すべきではない。障害という概念は、親の教育の責任も、教師の力不足の責任も、本人の努力が足りないからだという批判もすべて回避させることができる。関係者にとっては願ってもない概念である。そして、それは本人・親・教師・医者などの関係が円滑になる機能も持ち、治療的でもある。
そのような臨床的機能を評価しつつも、やはり社会病理を子どもの障害にすり替えているだけに過ぎないという根本の所は押さえておく必要がある。なぜならば、社会の変動によって起こってきた現象は社会政策的なアプローチによってのみ改善するからだ。既に「ひきこもり」になったり、「発達障害」になったりしている人たちに対応するだけではなく、これから「ひきこもり」や「発達障害」になってしまう人たちを防ぐことも必要とされることである。そのためには、心理学化についても批判する必要が出てくるように思われる。