井出草平の研究ノート

精神医学が臨床的に有害というのはよく分からない話

 『ひきこもりの社会学』 座談会について 3
 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20071203


上山さんが「カテゴリー化と薬剤談義に終始するタイプの精神医学」を批判したエントリ。具体的にその代表としてhotsumaさんを批判しているようだ。


上山さんの今回のエントリで最も不思議に思うのは、援助の重要な一端を担い、また、臨床的にも制度的にも必要とされている精神医学を「臨床的に有害」と述べている不思議さである。実際に精神医学は臨床的に有効である。また、社会の中で必要とされている*1


臨床での有効性については、hotsumaさんは以下のように反論されている。

ぼくは患者の一部には長時間の心理療法を提供しているし、時間が限られた環境に対応するための技法もたくさんある。つたないながら、精神薬理学的な治療以外の手段を自分が持っていないと思ったことはない。上山さんは議論を単純化するために、精神科医の臨床を戯画化しすぎだし、ひきこもり事例の治療可能性を低く見積もりすぎだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/hotsuma/20071206/p1


hotsumaさんの書かれていることは上山さんが批判対象である精神医学・精神科医を戯画化しているというところが一番重要だと思われる。確かに、精神科医が戯画化されているし、精神医学・精神科医の知識も不足している気がする。


上山さんのエントリでは精神科医の診断を「居直り」とも書かれている。精神科医の役割を診断と投薬にしか見出していないことから来ている表現なのかもしれないが、精神科医は実際にはこのような立場にいるわけではなかろう。


最近、精神科医近藤直司氏の「ひきこもり」についての論文*2を読んでみたが、そこでも居直りがされているとは考えにくい表現がいくつかあった。近藤氏は、ひきこもりには精神医学的な診断名をつけることができると主張している人であり、上山さんの表現を使うと「カテゴリー化と薬剤談義に終始するタイプの精神医学」に属することになるだろう。近藤氏は「ひきこもり」に携わっている人からは診断主義という評価をうけること(多くの場合は批判の体をとって)されることがあるし、精神医学の内部からも過診断ということや、人格障害の概念の拡大に繋がるという懸念*3の表明の対象になるのかもしれない。


このような批判が来ることが想定出来るにもかかわらず、近藤氏は一連の主張をしているのだとろうと思われる。つまり、批判は承知で、精神医学の立場から「ひきこもり」に対してできうる限りの援助を行おうという意志が読み取れるのである*4。研究論文ではあるが、人としての善意を感じることができる。一方で、上山さんのエントリでは精神科医は冷血人間として捉えられているように感じてならない。


批判が来ることを想定しながらも、わざわざ、精神医学がひきこもりに貢献出来ることを強調して、「ひきこもり」のサポートを率先して行おうというのは、「ひきこもり」を援助しようという意志と問題意識を持っているからである。そして、精神科医や科研の参加者という職務上の制約を十分に考えた上で、自身のできることを最大限行おうとしているように思えるのである。こういう行動は「居直り」とは言わないように思われる。


上山さんは精神科医(エントリではhotsumaさんに対して)「取り組みのプロセスをそれ自体として主題化すること」が欠けているという批判をしているのだが、単に精神医学・精神科医についてあまり知らないだけなのでは無かろうか。精神医学の論文を読んでいて、「取り組みのプロセスをそれ自体として主題化する」ものには時々出会うことがある。精神科医の方法論についても、そこに従事する精神科医たちについても、あまり知らないということから情報不足が起き、その情報不足から「戯画化」がなされているように思えて仕方ない。


上山さんのエントリからもう一箇所取り上げておこう。

カテゴリーについてえんえんと説明が続いているが、こうしたカテゴリーやレッテルは、中心的には施策との関係においてしか意味を持たない
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20071203


hotsumaさんのコメント欄でのやりとり*5に対しての批判であるようだ。この批判は大外れ以前に「ひきこもり」を巡る状況がどのようなものにと直面しているのかという事に対して無頓着なコメントである。


hotsumaさんが広汎性発達障害の有病率について書いていたり、コメント欄で私(井出)が近藤氏や衣笠氏の引用をしていることの意味がどうも読み取れていないのだろうと思われる。「ひきこもり」の周辺で「人格障害」の話をするということは、かつては人格障害の診断に対してアンチテーゼとしての「ひきこもり」という概念を示す意味を持っていたのかもしれないが、現在では人格障害は広汎性発達障害に関連した話として登場するトピックという意味合いを持つ*6


広汎性発達障害の概念の導入によって「ひきこもり」の周辺は大きく変わる。支援面で言うと、支援側に広汎性発達障害についての知識が広まることによって、不適切な援助をしているケースに対しては適切な支援を行える可能性が出てきた。この点では広汎性発達障害の知識を広めることには非常に意義がある。一方で、情報が広がる際には良くあることだが、情報が正確に伝わらないことがしばしば起きており、過診断・不適切な援助が部分的ではあるが実際に起こっている。現在はこの両方の情報を広めていく必要があるのである。上山さんのエントリでは、診断名を得て安堵感を持つという話と理解されているようだが、そのような意図でなされている話ではないし、臨床的に必要とされている議論なのである。


また支援側に限ったことだけではない。当事者からしてもこの問題は大きなものになる。なぜならば「あなたはひきこもりです」という名付けから、「あなたは発達障害だから一生治りません」という名付けへ変更されるのだから。これは、診断名を得て安堵感を持つという話ではなく、ラベルの中身が大きく違うのである。つまり、「ひきこもり」から「障害者」へのラベルの付け替えの問題である。このラベルの付け替えが当事者へ与えるインパクトは非常に大きい。


ひきこもり経験があるという人に対して、色々とご苦労をされてきたんですねと接する社会と、障害をお持ちなんですねと接する社会では大きな違いがある。当然、そこに立たされた当事者の気持ちも大きく違ってくる。ひきこもりと人格障害の話は単に施策の問題だけには留まらず、当事者にとっても大きな問題になってくるのである。


この意味では「ひきこもり」と「人格障害」に関しての議論には「中心的には施策との関係においてしか意味を持たない」というコメントは現状に対して大きく外れたものだと思えるのである。

*1:つまり精神医学の有効性を社会的に説得することに成功している

*2:近藤直司ほか「青年期ひきこもりケースの精神医学的背景について」『精神神経学雑誌』109[9]:834-43.

*3:http://d.hatena.ne.jp/hotsuma/20071121/p1#c

*4:以前にmacskaさんが「ひきこもりの問題で、「これはもう医療化するしかないんじゃないのか」と思ったのは、例の施設における死亡事件がきっかけです。医療の対象とされていないばかりに公的支援が入らずに家族ばかりに負担がかかることや、施設が公的な監視の外で運営されてしまうことなど、現状では問題がありすぎる。」と述べられている問題意識にも近いのではないかと思われる。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060602/p1

*5:http://d.hatena.ne.jp/hotsuma/20071121/p1#c

*6:http://d.hatena.ne.jp/iDES/20071202/1196611156