井出草平の研究ノート

サズ『狂気の思想』第二章 精神病の神話

サズ『狂気の思想』序論 - 井出草平の研究ノート

続き。

ナポレオンか共産主義者

この際、それが精神症状とみなされるのは、患者はナポレオンでなく、共産主義に迫害されてもいないことを医師が信じるときだけである。このことから次のことが明らかとなる。すなわち、「Xは精神症状である」という陳述は、患者の考え、概念、または信仰と、観察者および彼の住む社会のそれとの暗々裡の比較に基づく判断を含む。したがって、精神症状の概念は、作られた場所である社会の、ことに倫理的価値体系と抜き難く結びついており、それはちょうど、身体症状が解剖学的、遺伝的構造に結びついているのと同じである。

共産主義」が登場するのが時代を感じさせる。アメリカがベトナム戦争を戦っていたころである。

精神病の定義が誰によって作られているのか

これはもともとある種の人間行動を簡潔に表現しようとして作られた「精神病」という抽象概念を、あるタイプの人間行動の原因にしてしまうからである。今や、一体どんな種類の行動が精神病の徴候なのか、そして誰によって決められるのかを問わねばならない。

DSMやICDはエビデンスに基づいて、複数のエキスパートのコンセンサスという形だが、この形が理想形でないのは同感である。

精神病に罹った人だけが殺人を犯す

病気の概念は、身体的であれ精神的であれ、明確に定義された規準からの何らかの偏僑を意味している。身体病の場合の規準は人間の身体の構造的、機能的完全性である。かくして、身体的健康そのものは、それ自体倫理的価値であっても、何が健康かは解剖学的、生理学的言葉で表現できる。では精神病とみられるときの規準および偏僑とは何なのか? この質問は容易には答えられない。しかし、その規準が何であれ、一つのことは確かであろう。すなわち、それは心理学的、倫理的、および法的概念の言葉で表現されねばならない。たとえば、「過剰な抑制」とか「無意識の衝動の暴発」という概念は、いわゆる精神の健康と病気を判断するのに、心理的概念を用いていることを示している。慢性敵意、復讐心、あるいは離婚などが精神病の徴候であるという考えには、愛、親切、安定した婚姻関係が望ましいという一定の倫理規準の使用が示されている。最後に、精神病に罹った人だけが殺人を犯すのだという広くゆきわたった精神医学的意見は、法律的概念を精神的健康の規準として用いていることを示している。

この記述は、精神医学をかなり戯画的に記述しているように思われる。1970年周辺でもこのような主張が主流だったとは思えない。

精神医学は倫理の問題

精神医学は医学一般よりも一層倫理の問題に結びついている。私はここで「精神医学」という言葉を、人生の問題にかかわる現代的分野として使っているのであって、脳の病気を意味してはいない。

精神医学は精神疾患は病気であるという確信を植え付ける

私の考えからすれば彼らの目的は、一般人の心に精神病はある種の病気、すなわち感染とか悪性腫瘍のようなものであるという確信を植えつけようとするものである。

かつてはそうであったのは間違いないが、少なくとも30年前くらい前からは感染症モデルや腫瘍モデルではないことを、公に宣言してきたと記憶している。研究レベルでは1970年前半からそのような議論が活発であったが、先進的な研究と一般臨床や広報を担う精神科医の認識は異なっていたのだろう。

精神病は一人生き方の問題

私はここで、「精神医学的疾患」の新しい概念、または新しい型の「治療」を提唱するつもりはない。私の目的はずっと控え目であるが同時にずっと野心的である。すなわち、現在精神病と呼ばれている現象を新しく単純に見直し、いわゆる病気のカテゴリーから除外させること、そして、人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤の表現とみなされることを示唆しようとするものである。この問題は明らかに膨大であり、その膨大さの前に人聞は環境に対処する際の無能力を自覚して自己反省を強いられるのである。

サズの主張は、精神病を病気のカテゴリーから「人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤の表現」のカテゴリー戻すことである。

サズの主張は病気か人生の問題かという二択を前提としているが、現在の統合失調症の治療では、治療をした上で、どのように人生の問題として取り組むかという形になりつつある。もちろん、病棟に事実上軟禁されている患者が多いのは事実だが、ある意味であるべき姿へ向いつつあるのではないだろうか。