井出草平の研究ノート

サズ『狂気の思想』序論

トーマス・サズの1970年の著作。"Essays on the Psychiatric Dehumanization of Man"と副題があるように、既に発表されているエセーを集めた本である。

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狂気の思想は、すべての思想と同様に、タブー視されている赤裸々な「現実」へのかかわりを避ける立場をとるのが特色である。それは精神科的「診断」、「予後」、および「治療」といった科学的専門用語(たわごと)を用いて伝えられ、体制的精神医学の官僚組織と「精神病院」と呼ばれる強制収容所に具現されている。

「たわごと」に該当する括弧はなく"jargon"の翻訳。

犯罪はもはや法律や道徳の問題ではない

かくて犯罪はもはや法律や道徳の問題ではなくなり、医学と治療の問題なのである。さらに、多くの医師、社会科学者、および一般社会人が、このような倫理から技術へ、犯罪から病気へ、法律から医学へ、刑罰学から精神医学へ、処罰から治療への変形を、熱狂的に支持している。たとえば、『ニューヨーク・タイムス』掲載の、処罰の犯罪に関する書評の中で、ロジャー・ジュリネックは「犯罪はたしかに病気であり、悪ではないとメニンジャー博士は印象的に証明した」と述べている。

分かりやすい医療化の話。

犯罪・非行と精神医学

神医学の目的は人間行動の研究なのか、それとも人間行動(非行)のコントロールなのか? 換言すれば、精神医学の目的は知識の進歩にあるのか、それとも行動(非行)の規制にあるのか?

現代では精神病と犯罪行為について議論する余地はあまりないが、

精神医学は人間を人間を根本的に作り変えようとする

要するに、私があらわしたいと思ったのは、現代の精神医学は偽りの科学的論理に基づいて、個人の責任の存在、あるいはその可能性さえも否定することにより、人聞を非人間化するよう要求し、実践するものだということである。しかし、個人の責任の概念は道徳をもっ人間の概念の中心を成すものである。これなしには、西欧人の最も喜ぶべき価値である個人の自由は「現実の否定」となり、人が実際に持っていないものを、誇大的にも持っているという、真の「精神病的妄想」となってしまう。明らかに、精神医学は単なる「医学的治療技術」ではない。その言葉のかげでは、偽りの謙虚さとともに、その実践者の多くが本当は何をしているかを隠そうとしている。実際、これは一つのイデオロギーの技術であり、人間を根本的に作り変えようとしているのである。

精神医学は医療技術ではなく、人を根本的に作り変えるものであり、それが隠ぺいされているという「序論」の締め。

余談

ルソーという人は多くの愚言を弄したが、中でも最も愚かしく、有名なのは「人は生れながら自由なのに、至るところで鎖に繋がれている」という言葉である。この大げさな言葉は自由の本質を暖昧にしている。何故なら、自由が何者にも強制されない選択の能力を意味するならば、人は生れながらにして鎖に繋がれており、人生は解放への挑戦であるからである。

これはルソーが間違っているんだろうか。