井出草平の研究ノート

木村義則「不登校とひきこもり」

木村義則,2001,
「不登校とひきこもり」
『こころの臨床 à·la·carte』第20巻2号

 成人の精神科に勤務していた頃,中学2年から不登校でひきこもりを呈し、90歳の祖父の年金で生活しているが借金も多く,就労できないままひきこもりを続けている30歳の男椎と関わる機会があった(アルコール依存症だった)。その男性は極度の自発性低下,社会機能の障害を認め,家族や親戚からも見放され,アルコール依存による身体合併症の治療もままならない状態であった。入院治療を行ったが,本人の希望により不変のまま退院し,治療は中断された。児童・思春期の不登校,ひきこもりの症例に出会うと,この症例のことが思い出される。そして、「今なんとかしなければ」という(焦燥感にも似た)思いに駆られるのである。


「ひきこもり」という問題意識は基本的にこのようなものなんだと思う。
現在、ひきこもりの第一世代は45歳前後。その親がおおよそ70歳近辺である。日本の平均寿命を考えてみても、あと10年以内にひきこもり当事者の親が死んでいくことになる。親の死んだひきこもり当事者に生活能力が備わっている可能性は低い。


近年、「ひきこもり」は以前ほど騒がれなくなったトピックかもしれないが、この問題はまだ終わってはいない。「かつて」積み残した問題は解決されず、いまだに積み残されたままである。私たちは「ひきこもり」という問題にこれから本格的に直面していくことになる。

 しかし,最近の不登校の特徴として,(1)原因が単一のものでなく,いくつか複合しているものが増えてきた,(2)逆に,原因が「ない」もの,本人や周囲が原因を認識していないものも増えてきた,(3)かつての不登校児が多かれ少なかれ背負っていた「後ろめたさ」が見られず,症例2や症例3のように、不登校状態になっていることを(表面的には)苦にしていない例が目立つようになった,ことなどが挙げられる。
 登校刺激を加えてはならないという過去の定説は,以前ほど絶対的な拘束力を打たなくなってきており,場合によっては弊害さえも生じることが指摘されるようになっているが,現場レベルではまだ根強く残っている。しかし,不登校が増加してさまざまな様態が生じるにつれて,一律に登校刺激をしないようにという助言や指導をすることは,減ってきているのではないか。登校刺激について,どう考えれば良いかについては後述する。


登校刺激はよくないというのは、現場レベルでは残っているという指摘。ひきこもり問題が不登校のその後としてクローズアップされて、再び登校刺激が強調されるようになったが、いまだに登校刺激は良くないという価値観は残っている気がする。どんな場合も登校刺激はダメ、どんな時も登校刺激をすべきという両極の(イデオロギー的な)議論がおかしいのである。人によって、時期によって使い分けることが必要であろう。


登校刺激についての具体的方法について記述がある。

②登校刺激について
 「私のやり方」では,場合にもよるが,本人が受診してくるケースについては,思い返してみるとけっこう積極的に登校刺激をしている。前述のように.現状に因っている場合や,登校のきっかけがつかめないだけで,登校意欲そのものは芽生えてきている場合が,本人が受診してくるケースには案外多いためである。もちろん「行きなさい」などという直裁的な言い方はしない。「少しだけでも行ってみたら」「職員室か保健室にちょっと敵を出すだけでもいいじゃない」といったタッチである。
 タイミングも重要である。学期始めが一節良いと狙うが,運動会などの行事を見に行くことから始めても良い。なんでもない普通の一日にふと行き始めるのは,不登校でなくても勇気を要するであろう。休日の朝など子どもが誰も居ない時間帯を見計らって,校庭を2〜3周歩いてこさせるのも良い。いつまでも登校刺激を禁じる必要はない。大事なのはいまケースがどのような心情にあるかの見極めとタイミングなのである。