- 作者: ロルフデーゲン,Rolf Degen,赤根洋子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2003/01/10
- メディア: 文庫
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フロイトは話のフックであって、この本にはフロイトそのものは少ししか登場しない。原題は"Lexikon der Psycho-Irrtümer"で『心理学の間違い事典』といったような意味である。とはいえ、原著にも日本語版と同じフロイトの写真が使われているので、『フロイト先生のウソ』という日本語タイトルもそれほど違和感はない。
内容は、フロイトから後の学説・臨床技法を科学的根拠を持って批評していくという内容である。
一般的信じられている心理学関係の事項が章ごとに取り上げられている。
心理療法
心理療法について一言で要旨を述べるとするなら、心理療法の効果は平均的にはない、といったことだ。
結論を先に述べれば、プラセポ効果を上回る効果のある心理療法はただの一つも存在しない。(p.16)
欧米も同じだが、心理療法への過度な期待が存在する。
一応、この文章を正確に言えば、心理療法が無駄なのではなく、効果があれば、逆効果にもなるので、平均すると効果はゼロかむしろマイナスになる、ということだ。
心理療法への過度な期待があるように思える。心理療法は適切な時に、適切な人が、適切なアプローチで行えば有効であるもので、誰にでも有効ということではない。
しかし、こうした過大な期待は科学的認識からかけ離れている。数十年間に及ぶ寸実証的データに基づく心理療法研究」の結果明らかになったのは、「心理療法は精神障害に対して恐ろしいほど(おそらくは完全に)無力であるだけでなく、最悪の場合には治療するどころか精神障害を引き起こす場合さえある」という事実だった。(p.22 カッコ内はの社会精神医学者アスムス・フィンツェンの言葉)
薬を忌避して心理療法を課題評価することにも触れられている。
これは、マンハイム精神保健中央研究所のマティアス・C・アンガーマイヤー教授を中心とする研究グループがおこなったアンケート調査の結果からも明らかである。アンケートの内容は、「精神分裂病、うつ病、不安神経症のそれぞれについて、最も適切と恩われる治療法を選んでください」というものだった。 結果はきわめて明白だった。半数をはるかに上回る数の回答者が心理療法を選んだのである。重い精神疾患である精神分裂病についても結果は同じだった。精神分裂病の治療法として向精神薬を選んだ人は、20パーセントに過ぎなかった。対照的に、薬物療法を断固拒否した人は40パーセントに及んだ。これに対して、心理療法を拒絶した人は10パーセントだった。精神疾患の種類とは無関係に、一般的にこの傾向が見られた。
心理療法を選んだほとんどの人が、「心理療法は資格を持った専門家によっておこなわれるので信頼できる」、「治療者との話し合いの機会が持てるのがよい」、という理由を挙げた。「精神障害の『根』に迫ることによって根本的な治療効果を上げることができるのは心理療法(だけ)だしとする意見も多かった。回答者の3分の2が、「分裂病クラスの精神疾患でも心理療法によって改善する可能性が充分ある」という意見だった。心理療法のプロでも、ここまで言い切る人はまずいない。
「このような誤ったイメージーー患者(未来の患者も含めて)も同じイメージを抱いているに違いないーーが、欲求不満と失望を招いている」とアンガーマイヤー教授らは結論づけている。精神科の患者は投薬治療に抵抗を覚える。医者は薬を出すだけのおざなりな治療しかしてくれない。「唯一の救い」である心理療法をどうしてやってくれないんだ、と不満に感じる。しかし一方、重い精神疾患の患者が心理療法に希望を託しても、こんなはずではなかったと失望するはずである。向精神薬の発明によって初めて多くの精神病患者が非人間的な閉鎖病棟から解放されたという事実は、人々の意識にまだ浸透していないようである。(pp.25-6)
多くの精神疾患に対して有効なのは薬物療法である。ECT(電気痙攣療法)もいくつかの疾患で有効性が確かめられている。これはエビデンスの蓄積によって議論余地がないほど明らかなことである。
しかし、世の中には心理療法への過度な期待がある。その原因は心身二元論にある。哲学を勉強していると心身二元論の議論はある程度常識的なものである。心身二元論的なデカルトに対する反駁などに登場するものだ。
この要するに薬は身体に対応しており、心理療法は心に対応しているという誤解である。そもそも身体と精神は明確に分かれているものではないが、哲学の思考の訓練が少し必要なため、脳に関して述べるのが説明の近道ではないかと個人的には考えている。
うつ病の各症状とMRIの画像研究で判明したのが以下の図である。(Stal 2008=2010: 517)
精神の不調は脳の障害であって、脳の機能を正常化する薬物によって正常化できるという説明の方法である。十分な説明かと言われると、ざっくりしすぎだが、直観的にはわかりやすいように思う。
自尊心
「自尊心」も一般に信じられている迷信の一つである。
自分自身に対して肯定的な感情を抱かせると、子どもの学習能力は著しく向上する。「開放的な」教師や教育者の大半はおそらくそう信じていることだろう。特にアメリカでは、70年代以来これが国の教育方針とされてきた。従来の競争や成績主義や基礎知識に代わって、「自己受容」、「自尊意識」、「感情の豊かさ」といったヒッピー的価値観がカリキュラムに盛り込まれるようになったのである。(p.250)
ヒッピー的価値観という表現は新鮮である。日本ではあまりヒッピーという概念を使わないため、一瞬、ピンとこなかったが、自尊感情まわりの話は確かに言われてみればヒッピー文化である。日本ではヒッピーと呼ばれる人はいないため、標準的な教育への異議申し立てをする人々が該当する。ヒッピーと同じく左翼的な考え結びついているように思う。
世界的に有名な心理学者であるスタンフォード大学のアルパート・バンデュラも、最近の著書のなかで、「自尊一意識はその人の目標とも成果とも無関係である」と述べている。親の働きかけによって子どもの学力を向上させることは、場合によってはもちろん可能である。しかし、親がすべきことは子どもの自尊意識を高めてやることではない。子どもの学力を向上させる唯一の方法はむしろ、勉強や成績や学校の大事さをきちんと子どもに分からせることである。(p.252)
自己愛が高いことは必ずしも良いことではない。自己愛が極度にあることは、精神医学では自己愛性パーソナリティー障害として扱う。誇大な感覚を持っていることが主な症候だが、他人を自己の賞賛のために利用したり、共感が欠如していたり、周囲の人を大変困らせる存在である。
自己愛は自身の能力を課題に評価することと関連がある。自己愛の度合いを増やしたとしても、無用な自信をつけるだけである。成績であれば、自身の能力に比較して、テストの点が悪かったとしても、テストが悪い、自分の能力はテストなどでは測れない、といった批判をすることで、自己肯定をして終わる。
自尊意識を高めれば何もかもうまくいくという説は、その根拠を一つ一つ覆されていった。ドーズは、委員会への報告書のなかで次のように述べている。「自尊意識を高めることが児童虐待を防止する効果的手段になることを示す手がかりは何もない」少女の望まない妊娠も、自尊意識の低さとは無関係である。この問題は従来、自分に自信の持てないティーンエージャーが劣等感を隠すために性的に暴走するためと考えられてきた。しかし実際には、十代の性行動と自尊意識とのあいだに関連があるとすれば、それは、自信度の非常に高い少年が早くから頻繁に性実渉をおこなうという点である。(p.255)
10代で妊娠・結婚、そして離婚をするパターンは日本にもある現象である。 彼らの自尊心が低いかというと、必ずしもそうではない。
自己愛が高い者は学校の勉強から脱落しがちである。成績が客観的に提示されるテストに向かい続けている場合には、言い訳をしても限界がある。そのため、勉強とは異なる路線で戦おうとする。ニーチェ的に言えば権力への意思、およびその概念に付随する議論である。ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』のような価値の転換が行われるのだ。
自尊心が満たされない文化空間(学校・成績)では他者に勝てそうにないため、別の次元の文化空間で勝負をする、ということだ。高い自尊心は保ったままに、である。
たいていの心理学の教科書にも、「高い自尊意識の持ち主は成功する」とか、「ポジティブな自己評価の欠如こそ、人格障害を見分けるのに最適のサインである」とか書かれている。
しかし、残念だがこうしたパラ色の見方は間違いだ、とフォレスト大学(アメリカ)の心理学者マーク・R・リアリーは言う。「過去30年間にわたる、1万3585例の調査・実験例からそれは明らかだ」と彼は1999年に発表された著書のなかで述べている。アメリカの著名な心理学者ロイ・F・バウマイスターも、「自尊意識が何より大事だという熱狂的な主張は空想やたわごとのレベルだ、と失望を込めて言わざるを得ない。自尊意識の影響は小さくかっ限定的で、しかもそもそもそれはポジティブなものではない」という否定的な意見をインターネット上で公表している。カーネギー・メロン大学の心理学者ロビン・M・ドーズも同意見である。「高い自尊意識が望ましい行動につながることを科学的に示した例はこれまで一つもない。同様に、自分自身に対するネガティブな感情が望ましくない行動につながるなどということも、まったく証明されてはいない」(p.244)
このあたりは自己愛を良いものとして扱う心理学と偏った自己愛は精神疾患であるとする精神医学との違いであろう。言うまでもなく、健康的であるのは、自己愛や自尊感情が適度にある状態である。
瞑想
最近、瞑想がブームである。マインドフルネスという言葉で表現されることもある。グーグルが研修で取り入れることで有名にもなった。しかし、瞑想には期待するほどの効果はないことは無いことは既に明らかになっていることである。
ホームズが取り上げている28例の実験で、瞑想者の心拍数がうたた寝している素人のそれを下回ったものは一例もない。これに対して、素人の心拍数が瞑想者のそれをかなり下回っていたものは4例ある。皮膚電気反応でリラックス度を測定した実験で、「単に目を閉じて休息しているよりも、膜想したほうが心の平静が得られる」という結果が出た例は一つもなかった。血圧、筋肉の緊張、皮膚温、血流、酸素消費量、ホルモン分泌量(レニン、アルドステロン、ノルアドレナリンなど〉を調べても、瞑想の旗色は悪かった。どの数値を取っても、瞑想と単純な休息のリラックス度は同じか、あるいは単純な休息のほうが勝っていたのである。(p.297)
グーグルに代表される西海岸の文化は「ヒッピー文化」である。ヒッピー文化を支持する人はフロイトが好きなのかもしれないと検索すると、わりとたくさん引っかかった。ヒッピーの人は下記のフロイトの文章が好きなのだそうだ。印象的だったので、引用しておこう。
“Unexpressed emotion will never die. They are buried alive and will come forth later in uglier ways.”
「抑圧された感情は決してなくならないだろう。それらは埋没しても生き続け、後々、より醜悪な形となって現れるだろう」
仏教の文脈で読み替えると、醜悪な形として現れるものはカルマである。
そこから「瞑想でカルマを解放」といった発想が出てくるのは、非常に自然である。
フロイトの無意識は仏教の阿頼耶識(あらやしき)の概念との共通点が多く、フロイトとヒッピーの好きな仏教や瞑想はつながっていておかしくはない。
日本では、Gigazineが瞑想・マインドフルネスへの批判を比較的取り扱っている。
- マインドフルネスな瞑想は仕事のモチベーションを下げる可能性が示される
- Googleが実践する「マインドフルネス」がいかに創造性を殺したかという記録
- マインドフルネスや瞑想は科学的根拠が著しく乏しい
- 瞑想をした人の4人に1人は「不快な瞑想」だった経験がある
マインドフルネス・瞑想について調べると、推進したい人たちの本ばかりでてくるため、情報に偏りが出てくる。日本語でマインドフルネスのエビデンスの無さを読めるのは良いことだろう。
誤解のないように言っておくと、瞑想には効果がないと言ってわけではなく、一定の効果は存在する。効果が全くなければ、忘れ去られていたものであろうし、現在まで続くことはなかっただろう。しかし、習得コストが高く、その割にはあまり有効性が無いということである。
左脳と右脳
ヒッピー運動や学生運動の影響を受けて、今度は次第に右脳が優位に立つようになった。「わが国の教育は、左脳の得意分野である無味乾燥で理性的な能力ばかりを評価している」といった批判の声があちこちで上がった。右脳の埋もれた才能を掘り起こして伸ばすことが大事だとされ、右脳は抑圧された創造的・直感的な人間性が宿る場所として持ち上げられた。「右脳は、残忍な西欧文明に対立するものとして、搾取された創造的な東洋人のシンボルとなった」とオーストラリアの心理学者マイケル・C・カーバリスは説明している。ソフトで感情細やかな女性的な面は右脳に宿るとされ、一方、嫌われ者のハードな男性的特徴は左脳に割り当てられた。(pp.354-5)
こちらも二元論的な発想である。理性と感情を二分して、男性と女性にそれぞれ振り分ける考え方や、西洋人とアジア人(オリエンタリズム)に振り分ける考え方、そして、右脳と左脳に振り分ける考え方である。詰め込み教育と反詰め込み教育というバリエーションもある。
この本はフロイトの名前が名前がついているが、フロイトよりもヒッピー文化が一貫して登場する。全体を通して読むとヒッピー文化の源流の一つにフロイトの学説があるということになる。ならばもう少し踏み込めば、フロイトはヒッピーの元祖だったという解釈はなりたつのではないか、と思った。