井出草平の研究ノート

病気・疾病・疾患の翻訳の検討

精神医学分野における病気・疾病・疾患の翻訳についてまとめてみた。

ここでいうICD-10とはFカテゴリのことではなく『ICD‐10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン』のことで英語のタイトルはThe ICD-10 classification of mental and behavioural disorders clinical descriptions and diagnostic guidelinesである。

英語版は無料で読むことができる。日本語版は本として出版されている。 https://apps.who.int/iris/handle/10665/37958

ICD-10

正式名称

疾病及び関連保健問題の国際統計分類
International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems

略称

国際疾病分類
International Classification of Diseases

"diseases"の翻訳として「疾病」が使われている。

障害(disorder)の説明

この分類全体を通して「障害(disorder)」という用語が用いられているが、これは「疾患(disease)」とか「疾病(illness)」などといった用語を使用する際に生じる本質的で重大な問題を避けるためである。(日本語版p.5)
The term "disorder" is used throughout the classification, so as to avoid even greater problems inherent in the use of terms such as "disease" and "illness".(英語版p.5)

精神障害は疾病でも疾病でもありませんよ、と書いてある該当部分。
日本語の翻訳は「疾患」を"disease"、「疾病」を"illness"としている。

疾病

「心身性」も上と同じ理由に加えて,「心身性」と記載されないような疾病にとっては発症,経過,転帰心理的要因がまったく関与していないかのように受け取られかねないので,やはり用いられていない。(日本語版p.5)
"Psychosomatic" is not used for similar reasons and also because use of this term might be taken to imply that psychological factors play no role in the occurrence, course and outcome of other diseases that are not so described.(英語版p.5)

こちらは"diseases"を「疾病」と翻訳している。

精神科的疾病後の持続的パーソナリティ変化
Enduring personality change after psychiatric illness

こちらは"illness"を「疾病」と翻訳している。これは診断名なので、本文の翻訳の統一が取れていないことと深刻度が異なる。

機能不全は,脳を直接的にあるいは好んで侵す疾患,外傷または損傷の場合のように一次性のこともあれば,多数の臓器や器官系統のただ一部として脳が侵される全身性の疾患や障害の場合のように二次性のこともある.(日本語版p.56)
The dysfunction may be primary, as in diseases, injuries, and insults that affect the brain directly or with predilection; or secondary, as in systemic diseases and disorders that attack the brain only as one of the multiple organs or systems of the body involved.(英語版p.44)

こちらは"diseases"を「疾患」と翻訳している。

小括

ICD-10はタイトルから本文まで「疾患」、「疾病」、"disease"、"illness"の対応関係がバラバラである。公的統計にも使用されるため、矛盾があるのは好ましくない。翻訳に関わった研究者の責任なのだろうが、翻訳には厚生省統計情報部疾病傷害死因分類調査室も関わっていると明記されているので、責任の一端は政府にもある。

特に問題を感じるのは、タイトルの「疾病」は"diseases"であり、少しページをめくると、「疾病」は"illness"だと宣言され、診断名に含まれる"illness"も「疾病」と翻訳されているところだろうか。

DSM-IV

参考までにDSMの方も見ていこう。ICDとは違いDSMの方の訳語の管理は多少の例外は除きしっかりしている。

タイトル

タイトルは次のようになっている。

精神疾患の診断・統計マニュアル
Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders

"Mental Disorders"を「精神疾患」と翻訳している。ちなみに本文の"Mental Disorder"は「精神障害」と翻訳されている。タイトルは日本語として自然な用語を選んだとものを選んだというようなことをどこかで読んだ記憶があるが、忘れてしまった。間違いかもしれない。精神医学のプロパーは一般向けには「精神疾患」という言葉を使い、専門家同士では「精神障害」という言葉を使う傾向があると思う。どちらにしろ"Mental Disorder"の訳語だと共通認識があるのは間違いない。

法医学的状況におけるDSM-IVの使用

翻訳者泣かせの箇所から。

ほとんどの状況では,DSM-IV精神疾患の臨床診断が,"精神障害","精神能力低下","精神疾患"または"精神欠陥"などの法律的な目的のための存在であることを十分に確立していない.(序p.23)
In most situations, the clinical diagnosis of a DSM-IV mental disorder is not sufficient to establish the existence for legal purposes of a "mental disorder," "mental disability," "mental disease," or "mental defect."(英語版p.xxii)

"mental disorder"は最初は「精神疾患」、2回目は「精神障害」、"mental disability"は「精神能力低下」、"mental disease"は「精神疾患」、"mental defect"「精神欠陥」と翻訳されている。

問題は"disease"を「疾患」と翻訳しているところだろうか。DSMの中で言うと、この部分の翻訳者が間違っているのではなく、タイトルの"disorders"を「疾患」などと翻訳したことでいろいろ問題が生じているのだろうし、それを許容したとして、この訳語の改善案を出すのであれば"mental disease"は「精神疾病」と翻訳することだろうか。

DSM-III

タイトル

DSM-lll-R 精神障害の診断・統計マニュアル
Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: DSM-III-R

"Mental Disorders"を「精神障害」と翻訳している。「精神疾患」という用語を使い始めたのはDSM-IVからである。

精神と身体

"精神障害"と"身体疾患"の区別(日本語版p.xiii)
The Distinction between "Mental Disorder" and "Physical Disorder."(英語版p.xxv)

英語は同じ"disorder"だが精神の方は「障害」、身体の方は「疾患」と訳し分けられている。

病気

愛着をもっている主要人物から分離された場合, こうした子供は愛着をもっている人物, または彼ら自身に事故や病気が起こるのではないかという病的な心配をしばしば抱く。(日本語版p.58)
When separated from significant others to whom they are attached, these children are often preoccupied with morbid fears that accidents or illness will befall those to whom they are attached or themselves.(英語版p.58-9)

雑感

illness

"illness"の訳語はDSM-III-Rのように「病気」と翻訳するのが一番問題が少ない。

疾患

日本語の中で最も手垢のついていない言葉は以前のエントリでみたように明治期に入って造られた「疾患」である。これに価値判断の無い用語を充てるというのが最も理想的である。本来、病気以外のものもいろいろ入っているICDのDのdiseaseの翻訳語として一番適しているのは「疾患」である。

ICDのDのdiseaseの代替案は英語にはない

ICDのDがdiseaseなのに病気以外のものがいろいろ入っていることは英語圏でも批判があり、ICDのという名称がそもそも無理が生じていると考えられている。代替案があればいいのだが、英語には代替案となる単語が存在しないという問題がある。結局、illnessよりdiseaseの方がマシでしょ、sicknessは論外ということなのだ。

ICDは「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」といった長いタイトルをつけたり、ICDという名前ではあるけど、病気だけが入っているわけではありませんよと書くことからはじめなければならない。

ICD is the foundation for the identification of health trends and statistics globally, and the international standard for reporting diseases and health conditions. It is the diagnostic classification standard for all clinical and research purposes. ICD defines the universe of diseases, disorders, injuries and other related health conditions,
ICDは、世界的な健康傾向と統計を識別するための基盤であり、疾病や健康状態を記録するための国際標準です。すべての臨床および研究目的のための診断分類の標準となっています。ICDは、疾病、障害、傷害、およびその他の関連する健康状態の領域を定義しており、
https://www.who.int/classifications/icd/en/

ICD-11の下に書いてある「健康診断情報の国際基準」(The global standard for diagnostic health information)あたりが代案になってくるのだろう。

日本語での疾病の代替案は疾患

日本語においても、慣例を優先するのであれば「疾病」なのだが、日本語の場合には代替の言葉がある上、「疾病」->「疾患」という変更はいろいろなものを巻き込む修正ではあるものの、法律上の矛盾点(これは今回は書いていないけれども)一気に解決できる案ではあるように思う。