樋口先生の脳萎縮に関する記述
33ページに次のような記述がある。
ネット依存症が知能へ影響する?
ネット依存症による脳への影響はまだ十分に研究されているとは言えませんが、 ネット依存症と推定される人の脳の一部が萎縮し、これにより社会性などの領域へ影響が出ているという研究報告 (Zhou Y et al. Eur J Radiology) やネット依存の期間が長くなればなるほど、脳神経細胞の死滅が進むという研究報告 (Yua K et al. PloS One, 2011) もあります。
ネット使用自体が脳へどう影響するのかはさらなる検証が必要ですが、 成長期に十分に他者とコミュニケーションをとらなかったり、 生活経験に乏しいことは、脳の発達には決して良いとは言えません。(p.33)
引用されている2つの研究論文をみてみよう。
ネット依存症と推定される人の脳の一部が萎縮し、これにより社会性などの領域へ影響が出ているという研究報告 (Zhou Y et al. Eur J Radiology)
Zhou et al. (2011)はタイトルにもあるようにネット依存症と思われる人の脳のアブノーマリティを発見しただけにすぎない。論文中で「萎縮した」という「変化」があったという形では述べられていない。また、社会性に影響のある領域の灰白質の体積は少なくなっていることを報告しているが、ネットによるものなのか、別の理由によるものなのかは、言明されていない。
- Zhou, Y., Lin, F., Du, Y., Qin, L., Zhao, Z., Xu, J., & Lei, H. (2011). Gray matter abnormalities in Internet addiction: A voxel-based morphometry study. European Journal of Radiology, 79(1), 92–95. https://doi.org/10.1016/j.ejrad.2009.10.025
詳細はこちら(https://ides.hatenablog.com/entry/2023/07/06/051023)を参照。
樋口先生の、論文を正確に引用せず、ちょいちょい、ウソをついて、自説の補強をしていく癖(へき)が垣間見える部分だ。
本筋からは逸れるが、引用文献に2011年が抜けている。樋口さんの文章にはケアレスミスが割とあり、今回取り上げる200字程度の部分にミスが3か所ある。その一つ目である。
ネット依存の期間が長くなればなるほど、脳神経細胞の死滅が進むという研究報告(Yua K et al. PloS One, 2011)
この論文に関しては、元論文にも問題がある。一時点・ワンショットの研究にも関わらず、脳の構造が変化したと言い切るという間違いを犯している。
- Yuan, K., Qin, W., Wang, G., Zeng, F., Zhao, L., Yang, X., Liu, P., Liu, J., Sun, J., Von Deneen, K. M., Gong, Q., Liu, Y., & Tian, J. (2011). Microstructure Abnormalities in Adolescents with Internet Addiction Disorder. PLoS ONE, 6(6), e20708. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0020708
詳細はこちら(https://ides.hatenablog.com/entry/2023/07/25/035029)を参照。
その上で、樋口先生の塗り重ねたウソは「脳神経細胞の死滅」と書いたことである。灰白質は確かに神経細胞が存在する部位ではあるが、体積の大小と神経細胞の数には必ずしも関連はない。
「脳神経細胞の死滅」という怖い話にすり替え、盛る癖(へき)がここでも出ているように思われる。もちろん、元論文には「脳神経細胞の死滅」など書かれてはいない。
こちらの引用にも間違いがある。筆頭著者名はYuaではなくYuanである。Yuanは中文では元という苗字である。Yuaは中文では何かわからなかったので、百度で検索してみると、オーエスキー病の株、もしくは、女の子(日本語由来)の名前だそうだ(https://bityl.co/K69S)。
樋口先生の依存症の説明
66ページにまとまった説明がある。
ある物質やある行為によって心地良さを感じると、その刺激は脳の「快中枢」と呼ばれる快感を生み出す中枢に伝えられます。すると、脳の側坐核という部分が活性化して、神経伝達物質の一種であるドーパミンが大量に放出されます。
これによって、快感という情報が脳全体に伝えられ、前頭連合野の働きが活発になります。
前頭連合野は、情動や記憶、集中力、判断などに深くかかわっています。その快感が刷り込まれ、また味わいたいという気持ちが起こります。つまり、ドーパミンが出るように、行動が強化されるのです。
その行動がくり返されるうちに、脳はさらに強い刺激を求めるようになり、よりいっそう行動が強化され、ドーパミンの分泌量が増えます。(p.66)
67ページに分かれやすいように図示もされている。
その刺激は脳の「快中枢」と呼ばれる快感を生み出す中枢に伝えられます。
快楽中枢(快中枢)というのはJames Oldsが1956年に書いた"Pleasure Centers in the Brain"という有名な論文のことである。なんとも古い話を出してくるものだ。
- Olds, J. (1956). Pleasure Centers in the Brain. Scientific American, 195(4), 105–117. https://www.jstor.org/stable/24941787
この論文では、ラットがレバーを押すことによって自分の脳を刺激できるように電極を配線したところ、ラットが1時間に1,000回以上もレバーを押すことを発見したことが報告されている。「われわれはおそらく、脳の中に、行動に報酬効果をもたらすという特異な機能を持つシステムを発見したのだろう」と述べられている。
しかし、この実験と解釈は、現代では疑問視されている。
マウスの機能一部を欠損させる実験技術(ノックアウトマウス)を使った実験ができるようになってから、1956年に唱えられた仮説は否定されている。
ドーパミンの作用は、これまで理解されていたよりも微妙なものである可能性があるということだ。この化学物質は、実際の快感そのものよりも、動機づけに大きく関与しているようだ。人間においても、ドーパミンの濃度は、おいしいものを「好き」と言う度合いよりも、「欲しい」と言う度合いの方がより密接に関係しているようだ。 https://www.scientificamerican.com/article/new-pleasure-circuit-found-brain/
樋口先生のドーパミンに関する理解は67年前で止まっているようだ。
脳の側坐核という部分が活性化して、神経伝達物質の一種であるドーパミンが大量に放出されます
この部分の出所は結局よくわからなかった。
側坐核と依存症には関係はあることがいくつかの実験から示唆されている。
計画システムにおける過大評価という仮説の一つである。例えば、ギャンブルで賭ける時に、がっちり儲けられるに違いないという予測値を誤って過大に課題に評価するといったものである。これに、側坐核でのドーパミン放出が関係していることが示唆されている(Ikemoto & Panksepp 1999; Robinson & Berridge 1993; Roitman et al 2004; Salamone et al 2005; Robinson & Berridge 2001; 2003, review)。詳細はこちら(https://ides.hatenablog.com/entry/2023/07/07/010934)を参照のこと。
とはいえ、である。
快楽中枢が刺激されたことによって、側坐核からドーパミンが放出されるというのは、トンデモである。しかも「大量」に、というのは、聞いた事がない話である。この話は、樋口先生が広めて、樋口先生のフォロワーが似たようなことを言っているのだが、肝心の樋口先生が参照したネタ元が不明なままである。樋口先生の創作なのかもしれない。
快感、多幸感、陶酔感などが生れる
体外から入ってくる物質以外で、このような感覚は、フェネチルアミン、β-エンドルフィン、アナンダミドなどいわゆる「脳内麻薬」といったものによっても生まれる(https://en.wikipedia.org/wiki/Euphoria)。
ドーパミンに関しては、直接、快感、多幸感、陶酔感を引き起こすといった科学的エビデンスはない。ドーパミンの役割は感情処理を「媒介」することにあるというのが近年の研究で示唆されていることだ。
Ferreri, L., Mas-Herrero, E., Zatorre, R. J., Ripollés, P., Gomez-Andres, A., Alicart, H., Olivé, G., Marco-Pallarés, J., Antonijoan, R. M., Valle, M., Riba, J., & Rodriguez-Fornells, A. (2019). Dopamine modulates the reward experiences elicited by music. Proceedings of the National Academy of Sciences, 116(9), 3793–3798. https://doi.org/10.1073/pnas.1811878116
Goupil, L., & Aucouturier, J.-J. (2019). Musical pleasure and musical emotions. Proceedings of the National Academy of Sciences, 116(9), 3364–3366. https://doi.org/10.1073/pnas.1900369116
快感という情報が脳全体に伝えられ、前頭連合野の働きが活発になります
2015年のBerridgeとKringelbachのレビューで次のように書かれている。
古典的な快楽電極や中脳辺縁系ドーパミン系など、最もよく知られた快楽発生因子の教科書的候補のいくつかは、結局のところ快楽を発生させないかもしれない。
- Berridge, K. C., & Kringelbach, M. L. (2015). Pleasure Systems in the Brain. Neuron, 86(3), 646–664. https://doi.org/10.1016/j.neuron.2015.02.018
ドーパミンが放出されて快感を感じて依存症になるという現代では否定されているメカニズムをいつまで使い続けるのだろうか。
つまり、ドーパミンが出るように、行動が強化されるのです。
日本語がおかしい。
推測するに、「ドーパミンが出ることによって、行動が強化されるのです。」と言いたいのではないだろうか。
本として出版されているのに、ケアレスミスだらけ。編集者と校閲は何をしていたのだろうか。
まとめ
樋口先生の脳の話の一部には古い実験や論文に元ネタがあることがあることが分かったが、現代では否定されていることが確認できた。また、元ネタが分からなかったものもあった。知らない文献は山のようにあるので、探し当てられていないだけかもしれないが、樋口先生の創作である可能性もある。
樋口先生の脳科学理解の間違いを一言で間違いを指摘できればいいのだが、ほぼ全部が間違っているので、訂正に非常に手間がかかる。
chatGPTさんに樋口先生の脳と依存症の理解について聞いてみると、「空々白々(そらぞらしろしろ)」と言うんだよ、と教えてくれた。「何も知らないのに知っているふりをする」、「見せかけだけのことを言う」という成句らしい。