井出草平の研究ノート

三好達治も不登校だった

六才のときに、舞鶴の佐谷おじさんの家に、養子としてもらわれていきましたが、すぐに三田のおじいさん、おばあさんの家にひきとられ、四、五年をそこですごすことになりました。
三田の家で、達治は、小学校に入学しましたが、その小さな心は、ますます内へ内へとこもっていくようになり、二年生になったときには、とうとう神経衰弱になって、長いあいだ、学校を休まなければならないほどになってしまいました。
夜、ふとんに入ると、達治は----ぼくは、ひとりぽっちや。ぼくのまわりにはだれもいてへん。まっくらやなあ。からだが、どんどんしずんでいくみたいや。こわい。こわいよう。----と思うのです。くらいなかでひっしに目をこらして天井をみつめていると、天井の小さなしみが、だんだん大きくひろがって、しまいには、ねている達治におおいかぶさってきます。
「たすけて!」
と、さけんで目がさめると、あせびっしょりという毎日でした。

――大阪府小学校国語科教育研究会編著『大阪の人物ものがたり』64-5頁


これも知らなかった。