井上洋一「Anorexia Nervosaと意味」

井上洋一,2006,
「Anorexia Nervosaと意味」
『臨床精神病理』第27巻3号.


精神科医・井上洋一の日本精神病理・精神療法学会での講演をまとめたもの。精神科医らしくいないという言い方が正しいかどうかは分からないが、近年のスタンダードである機械的な記述で書かれてはいない。加えて非常に納得のいく記述が多い。

1978年,神経性無食欲症についての本を出版したBruch, H.は,本の題をThe Golden Cage 「金の龍」,副題をThe enigma of Anorexia Nervosa 「Anorexia Nervosaの謎」とした。 Bruchは患者を「籠の中の鳥」に誓えた。彼女は神経性無食欲症の少女について, 「中流か上流の家庭に育ち,経済的に豊かで,ほとんどの場合社会的地位は高い」と述べている。家族の中で大事にされ,両親の期待に応えて完璧なこども時代を送っていた患者が,実は「籠の中の烏」であり,心の中に無力感を抱えているとBruceは考えた。家族内の力動,患者の生き方から摂食障害の病理を理解しようとする視点を示した。摂食障害が現在のように広がりを見せる以前,「神経性無食欲症」といえば良家の子女が患う病気というイメージを持っていた。


「良家の子女」という表現。中井(1999)にもあった表現。現在の主流は「優等生」タイプのようだ。これも現代的な「良家の子女」ではある。


ダイエットから派生した摂食障害が多いとのこと。

 大阪大学を受診したAnorexia Nervosa患者でダイエットをしたことが明らかなのは56%であった19)。自分が太っていると感じてそのことを強く意識したり,他人に太っていると言われたりしたことから,ダイエットを始めた患者が多かった。
 ほとんどの女性が途中であきらめるダイエットを患者は何故やりぬくことができたのか。それが第一の疑問であった。人間の最も基本的な欲求である食欲に打ち勝つにはよほどの決意が必要であり,その決意を生み出す強い動機が彼女たちにあるはずである。高度の痩せに至る過程は「道なき通を進む荒業」のようなものなのか,それとも「秘密の小道を辿る孤独な歩み」なのだろうか。意外なことに実際にはそのどちらでもない。患者たちは「充実していた時期だった」と語ることが多い。


日本ではダイエットとの関連性が、西欧ほどには言われない。この理由は、言説的な問題(母原病的な発想など)もあるが、実際にダイエットから摂食障害になる割合は低いのではないかと思われる。


以下の記述には、達成感を出す「痩せ」という「打ち出の小槌」という表現が含まれる。的を射た比喩だと思う。

 他人の日には痩せすぎているように見えても,さらに「痩せ」を追求しようとし続けるのは,自分が理想の体形に到達したとは思えないからであり,いくら痩せてもこれで十分だとは思えないためである。彼女たちが目指したものは,数字で表せる目標ではなく,理想の自分になることである。理想に達したと感じることができない限り,彼女たちは「痩せ」という手段を手放すことはできない。拒食を止めることは,理想の自分を手に人れる魔法を放棄することである。折角手に入れた「打ち出の小槌」を自分から手放すことは難しい。目的とそこに達するための手段が固定された思考が彼女立ちに認められる。


以下は、盗み食いや万引きについて。

 何故盗み食いが生じるのかという疑問がある。拒食を貫こうとしている患者が食物を何故盗む必要があるのか。お金を払って食物を手に入れる手続きを省こうとする理由は何なのだろうか。
 摂食障害が単純な肥満と痩せの問題では収まらない広さと深さをもつ病気であることを,「食品窃盗」や「盗み食い」などの食行動異常が示している。これらの一見理解困難な症状にどのような意味を読み取ることができるのだろうか。スーパーで食品を万引きし,簡単に見つかってしまう例がある。所持金が十分にありながら,安い食品を盗み,しかも見付からないための努力もせず,簡単に店員に捕まってしまう。金銭的な損得勘定が理由の窃盗にしては,あまりに稚拙で大胆である。社会的な不利益に見合う現実的なメリットはどこにも見当たらない。このような食品窃盗の意味を日常的な次元で捉えることは困難である。食品窃盗をはじめとして,盗み食い,隠れ食いなどの食行動異常はその行為の象徴的な意味にこそ理解の手がかりが潜んでいる。
 食物が何を意味しているのか,その意味を象徴的な意味に読み変える必要がある。拒食を続けているうちに,患者の意識は食物に集中し,食物への関心は高まる。常に食物のことが頭を占領する。食物は忌避すべきものでありながら,同時に強く憧れる対象にもなる。肥満の恐怖を呼び起こすものでありながら,手に人れることができない魅力をもった対象でもある。つまり食物は「両価性」を帯びた特殊な対象になり,重要な意味を象徴する特異なシンボルになっていると考えられる。
 食物窃盗を繰り返した症例がある。幼児期に母親が結核にかかり,母親との接触を許されなかった患者は,成人になった後も,かつて母親から得ることができなかった理想の愛情を求めていた。何度も警察沙汰になっていたにもかかわらず繰り返されたその患者の食品窃盗は,食物を母親の愛情として読み替えたときに初めて意味が明らかになった。愚者患者にとって盗んだ食物は,本来自分に所属しているべきものであり,無償で自分の手に取り戻すことが正しい行為であった。愛情を取り戻すときに,逃げも隠れもする必要はなかったのである。食品が母親の愛情を象徴していることを理解するならば,患者の食品窃盗は増親の愛情を取り戻す行為として了解されるのであった。


以下は「優等生」について。

 多くのAnorexia Nerovasa患者は優等生と言われてきた。多くの家族から異口同音に,「全く問題のない,手のかからない良い子でした」という言葉が語られる。神経性無食欲症患者52名のうち,成績上位で周囲からの評判も良い「いわゆる優等生」は半数の26名に達していた。彼女たちは自分が果たすべき役割を実行し,周囲から期待されたことをやり遂げていった。親は本人のすることに口を出す必要が全くなかったという。子育てが楽だったという実感を多くの親は語っている。これほど多くの優等生タイプの患者が集まっている疾患は他にない。


つまり元優等生だったAnorexia Nervosa患者は親から与えられた目標を目指すのを止めて,自分で目標を選択したと考えることができる。その目標がたまたま「痩せ」であったということになる。思者は従順であることを止めて,自己主張を始めたのである。親に忠実であった患者が自分の考えで生きようとし始めたのであれば,Anorexia Nervosaには否定すべき点ばかりでなく,自己主張,自立の契機が垣間見えるといわざるを得ない。治療者はこの自立の契機にも心に留めておくべきであろう。


摂食障害は「社会化の失敗」として捉える必要があるのではないかと思う。つまり、男性型の社会化の失敗が「ひきこもり」であり、女性型の社会化の失敗が「摂食障害」であるということである。ここに個人−家族−社会という繋がりが上手くいかない後期近代の日本の姿を見ることが出来るし、後期近代に生きる私たちの生きづらさの根本的な原因もここにあるように思われる。


以下は、摂食障害を起こす原因と摂食障害の結果として陥る状態との区別の話。

 しかしこのような個人の歴史への「問い」には含まれていない疑問がある。自らの意思でダイエットを試みて,痩せようとしたAnorexia Nervosa患者の多くは,やがて病気のメカニズムの中に閉じ込められてしまう。Anorexia Nervosaは患者の意図を超えて忍者患者を巻き込んでいく力を備えている。個々の患者が持っている要因は多様であり必ずしも均一ではない。ところが,どのような道筋からダイエットにまで辿りついたにせよ,一旦病理との境界線を越えると,あたかもあり地獄に落ちるかのように,後は同じ傾斜を滑り落ちてAnorexia Nervosa固有の病理に到達するように見える。そしてAnorexia Nervosaが発症すると彼女たちの個別性が消え,同じような言動が認められるようになる。発症の過程においては,患者が抱える個別の心理的な負荷や葛藤の内容や程度に左右されないAnorexia Nervosa独自のメカニズムが働いていると考えられる。痩せが高度になったときに,そこに出現する関連諸要因の布置constellationの中にAnorexia Nervosaを生み出す構造や力動が含まれているのではないだろうか。そしてそれは人生についての大きな文脈とはまた別の理解が求められる領域ではないだろうか。


非常によく分かる話である。個人的には、摂食障害は問題ではないという意見に同意できない。
つまり、摂食障害と言ってもほとんどは死なないし、吐いたとしても死ぬわけではないから問題がない、という主張である。この主張には同意できない。


一つは、摂食障害の問題は食べ物に目を奪われすぎであるということである。食べないことや食べ過ぎることや吐くことは特に問題ではない。これは、自宅にひきこもり状態になることが問題ではないのと同じである。それそのものは何も悪いことではない。摂食障害は、言うならば、生きづらさの結果として表れてくる表象のようなものである。摂食障害を摂食行動の問題として認識することは、摂食障害というものの本質を外しているように思える。


もう一つは、井上氏が述べるような理由からである。食べないことや食べ過ぎることや吐くことが、新たな問題を生み出すのである。これは、ひきこもり状態が「ひきこもり」の原因とは別の新しい問題を生み出して、社会参加を阻む要因になっていることに似ている。「あたかもあり地獄に落ちるかのように」逃れられないようなループに入っていく。このことがあるからこそ、食べないことや食べ過ぎることや吐くことが問題ないとは言えない。


以下は「肥満恐怖」について。

 肥満恐怖は,患者の個別的条件に由来するものであるというよりは,拒食という戦略を選択し,次第に体重減少が進行するに連れて自ずから生じてくる病理であると考えたい。一般的なダイエットとAnorexia Nervosaとは全く別の様態のものであり,前者から後者へ移行するときには,何らかの強い力が働いているはずである。その力を生み出す源は,関与する諸要素間の力動にあると考えられる。Anorexia Nervosaは,ダイエットの結果高度の痩せが生じ,その状態がそのまま慢性化しただけの状態ではない。高度の痩せは次の異なった様相を導き出している。痩せが進行し,関連諸要素の特性が先鋭化し,そこに新しい力動が生じたとき,肥満恐怖が出現する。諸要素の相互関係の変化から強い力勤を生み出す構造が出現すると考えるべきあろう。そのメカニズムがAnorexia Nervosaの精神病理の中核にあると考えられる。
 患者が痩せ始めた当初,体重減少は単に容姿の問題に限定されている。ところが,痩せが進行すると体重減少の意味は死につながるものに変質する。家族の心境は多少の不安から恐怖へと変わる。患者の痩せた姿を見た家族は,強硬な反対へと態度を変化させる。患者にとっても痩せの意味は次第に変質していく。やせは一つの手段から,自己の生活の中心をなすもの,自己の未来を賭けたものへとその重要性が過度に肥大する。
 痩せが進行する過程で患者と家族の関係にも大きな変化が生じる。最初,患者は痩せることに専念し,充実した時期を過ごすことができる。理想の追求に没頭して不安を回避し,痩せていることの特権を享受できる。しかし痩せが進行するにつれて,患者を取り巻く環境は大きく変化し始める。家族からの批判に晒され,家族との対立が強まっていく。家族の反対に加えて過食への圧力など,痩せの追求を押し止めようとする強い力が現われて患者を脅かす。家族は患者が死ぬのではないかと怯える。家族はAnorexia Nervosaを不可解な病気とみなして,痩せを非難し患者の考えを否定する。患者は孤立していく。
 痩せようとする患者の意思と,痩せるための行動が批判の対象になる。患者は自分のすべてを否定され,しかも痩せている自分が持っているはずの価値までも否定されているように感じる。自分白身を守ろうとする努力,あるいは理想をめざそうとする自分の生き方を家族は破綻させようとしているように感じられる。家族からの圧力は,自分が回避してきた困難や挫折に自分を再び直面させるものに思える。崖っぶちに追い詰められた患者が,自分を守る最後の手段と考えている「痩せ」を失う恐怖,それが肥満恐怖である。家族の言う「患者を救う道」が,患者には「自己破滅の道」にしか見えない。


拒食症や過食症のループに入った時には、「痩せたい」というよりも「太りたくない」という気持ちになると言った方が適当である。ここで言う、「肥満恐怖」とは、摂食障害以前のダイエットの動機となるものとは別である。ダイエットの動機は「痩せたい」だが、摂食障害の時のループでは「太りたくない」という表現が適当である(参照)。「家族の言う「患者を救う道」が,患者には「自己破滅の道」にしか見えない」というのは、本当にその通りである。