井出草平の研究ノート

世界遺産「マサダ」


世界遺産」第485回「マサダイスラエル)」(2006年03月05日)を見る
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20060305/onair.html

マサダ死海のほとりに聳える岩山の上にある。紀元前35年頃ヘロデ大王離宮として築かれたものだ。


西暦73年、マサダは悲劇の舞台となる。ローマ帝国の支配に反旗を翻したユダヤは都エルサレムを失い、およそ千人がマサダに立て籠もり最後の反抗を試みるが、2年に渡る籠城の後、集団自決を遂げた。


ユダヤ教では自殺は禁じられている。そこで父親がまず家族を殺し、残った父親たちは陶器の破片に名前を書いた「くじ」をつくり、くじで選ばれた者が残りの者を殺していった。最後に残った一人だけは自殺をせざるをえない。しかし、自殺を禁じる戒律を破ったのは、最後の一人だけだった。


そういえば『自殺論』に似たような記述があったなと、思い出したので確認してみると、マサダに立てこもる前にエルサレム内で集団自殺をした例だった。

攻囲的自殺(suicide obsidional)とよくよばれているものについてのケースである。〔フラウィウス・〕ヨセフスはその著冒『ローマ人対ユダヤ人の戦争史』のなかで、エルサレムの攻略中に若干の龍城者が手ずから自分の命を断ったと語っている。なかでも、地下にのがれた四〇名のユダヤ人は打殺を決意し、たがいに刺しちがえて死んでいった。


やはり、自分で自分を殺すのではなく、互いに刺し違えて集団自殺を図っているとのこと。ちなみに、デュルケームユダヤ人であり、父親がラビだったので、こういう話は子ども時代から聞かされ続けていたのであろう。

アノミーはまた、集団本位主義とも同じくむすびつくことができる。すなわち、同じ一つの危機が、個人の生活を混乱におとしいれ、個人とその環境のあいだの均衡を破壊し、それとともに個人の集団本位的傾向を刺激して自殺をまねきやすい状態におとしいれることがある。それはとくに攻囲的自殺と名づけたもののばあいである。たとえば、エルサレムの陥落のさい、ユダヤ人たちは一団となりて自殺をとげたのであるが、それは、ローマ人の勝利によってかれらがローマの臣下や属国の地位に下り、それまで守ってきた生活様式を変えることをよぎなくされるのではないか、といを脅威のあったためであり、と同時にユダヤ人たちは、かれらの町と宗教にあまりにも強く愛着をいだいていたので、その両者が無に帰したあかつきには、もはや生きのころうとはおもわなかったからであった。


アノミーの中の急性アノミー+集団本位=攻囲的自殺ということか。改めて読んでみると、集団への「愛着」について触れられていることを発見した。これは『道徳教育論』などで展開される、デュルケムの道徳論の中心的テーマだ。


まとまりのないエントリだが、デュルケームの問題関心を含めて、いろいろ勉強になった。