ベッカー『アウトサイダーズ』


アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか

アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか


読書会の本。読み終える。
原著は1963。翻訳は1978年である。


「逸脱」の定義。「ラベリング理論」への転換の宣言でもあるようだ。

むしろ、次のような意味でいっているのだ。社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によってこの規則と制裁とが「違反者」に適用された結果なのである。逸脱者とは首尾よくこのレッテルを貼られた人間のことであり、また、逸脱行動とは人びとによってこのレッテルを貼られた行勤のことである。(p17)


以下は逸脱主体のみならず、逸脱だと認定するオーディエンス込みで、逸脱を捉えるという記述である。

逸脱とは、むしろ、他の人びとの反応行動をも包括する一過程の産物なのである。同一の行動が、時に応じて規則違反になったりならなかったりする。(p23)


以下は、逸脱は「内容」によって決まるのではなく、逸脱は「形式」であり、それは一義的に決まるものではなく、文脈依存をしているという記述。

こうして、執行者は自分の仕事状況の多忙さに応じて、選別的な方法で規則を執行し、アウトサイダーを生みだす。ある逸脱行為を犯した人間が実際に逸脱者のレッテルを貼られるかどうかということは、彼自身の現実行動とは無関係な数多くの要因にかかっている。つまり、事件当時執行官がみずからの地位の正当化のためにその任務遂行を示威する必要を感じていたかどうか、不正行為者が執行者に対して適切な敬意を払っていたかどうか、「賄賂」が贈られたかどうか、あるいはまた違反者の行為が執行者の取締り優先順位のリストに該当する種類のものだったかどうか、にかかっているのである。(p232-3)

以下は「逸脱は規格の産物である」という記述。スペクター=キツセの「クレーム申し立て」にもつながる記述である。

 逸脱はまた、より狭義の、特定の意味での企画の産物である。ひとたび規則が存在するにいたると、まずそれは特定の人びとに適用され、その後になってアウトサイダーという抽象的な人間類型がその規則によって生みだされるのである。逸脱者は発見され、身元確認を受け、逮捕され、有罪の判決を受けなければならない。(p234-5)


以下の注釈。「逸脱」を研究する時の困難性が書かれている。非常に参考になる記述だ。

7 ネッド・ポルスキーは私と個人的に歓談したなかで、研究者が不法活動に関与する際に直面するモラルの問題について一つの示唆を与えてくれた。本論ではそれについては扱わなかったが、私は彼の意見に全面的に同意しておりここに彼の許可を得て、それを再現することにした。
 「もし法律違反を犯した逸脱者をありのままの姿で、つまり刑務所の外で正確に研究するつもりならば、研究者は場合によっては自分自身もまた法を犯すことについて、道徳的決断を済ませておかねばならない。『参与観察者』である必要もないし、また研究対象である逸脱行為を犯す必要もない。しかしながら、その行為を目撃してもその秘密を守らなければならないし、またけっして呼子を鳴らしてもいけないのだ。事前にせよ事後にせよ、調査者は語の法的意味でいつかは『正義に背い』たり、あるいは『従犯』となったりすることを前もって決意しておかなければならないのである。その決心をおこたり、逸脱着たちの信用が得られず、彼らと行動を共にする勇気があるということを彼らに納得させることができないかぎりは、犯罪行動の生きた姿も非合法的下位文化の構造もけっして認識できないであろう。研究者が逸脱者の信用を得ることは非行少年の場合にはそれほど問題ではなかろう。彼らは研究者が警察に密告するおそれのないことを十分心得ているからである。しかし、成人犯罪者の場合には、調査者にそのような信顔を寄せることはありえず、したがって彼らの目も単に調査者の意図だけでなく、彼が警察の尋問を前にしても『知らぬ顔の半兵衛』を決めこむことができるかどうかという点に向けられることになる。
 社会科学者がこれらの要件に直面することは、これまでめったになかったことである。これは、われわれのいわゆる犯罪社会学の知識なるものが、刑務所内の囚人研究だけにもとづいていたからである。アメリカでは、刑務所行きの判決を下される犯罪は警察が摘発した主な犯罪のうちのわずか六%にすぎないという事実があるにもかかわらずである。社会学者は、犯罪者の二十四時間の行動の観察が可能な状況の設定を模索するのをおこたってきたため、服役中の、あるいは法の網にかかった逸脱者のデータを集めることに終始している。そのデータなるものもまた、しろうととか取るに足りない犯罪者ばかりを集めた、人為的な環境で観察された間違いだらけのサンプルで、普段逸脱者がどんな生活を営んでいるかということを体系的に研究したものではない。こうして社会学者は、しばしば現代の逸脱的下位文化の実態については−−−−とりわけ成年職業犯罪者のそれについては−−−−、ジャーナリスト以下の知識しかもっていないのである。」(p250-1)


ついでにもう一つ。少し前に読んだ読書会の本。


ルーマンの社会理論

ルーマンの社会理論


ルーマンの研究書。
結局の所、ルーマンというのは形式論なのだなということがわかった。


ルーマンは社会を説明変数に使わないという点で、社会学ではないというのは、別に今更言うことでもないが、社会学を底支えするためのメタ社会学としては使用価値はあるように思う。ただ、ルーマンが唯一の存在というわけではなく、代わりにカントを自身の形式論として採用しても良いのだろう。もちろん形式的にはルーマンとカントを等置できるということではないが。