井出草平の研究ノート

なんか来た

社会学の研究を社会に対する社会的行為なのだと捉えない学徒は多い。


 井出さんはどうやら、佐藤さんの解説的見解を「研究が社会的行為であることを指摘したもの」であると理解したうえで、それに対して──「そう。反省って大事だよね♪」、と──「賛成」しておられるようなのですが。佐藤さんのコメント=解説は、「言説分析とはどんなことをすることか」について語ったものなので、その点で大ざっぱには「それは行為である」とは謂われているのかもしれませんが、しかしそこで別に「研究は行為か否か」が争点=焦点になっているわけではないですよね。
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060607#1149652654


id:contractioから言葉を頂いたので、とりあえずコメントを。


研究であれ、なんであれ、アウトプットを出して他者に対して微細でも影響するものならば、社会的行為なので、研究が社会的行為であるということを指摘したところで、それは違うよという人もあんまりいない気もしますし、そう捉えることもできましょうか、という感じでしょう。当たり前といえば当たり前ですし、その点について「良いコメントだ」と言ったわけではないです。


佐藤コメントを「研究は社会的行為である」と書いてあると読んだ訳ではなく、「でも、それも社会的行為だよね」という付加をして、社会問題の構築の読書会のために、佐藤コメントとは位相の違う話をしているというのが先のエントリの趣旨です。


コメントに対してはこれで返答になっているかとは思いますが、質問?らしきものもエントリくださっているので、補う意味でも、もう少しだけ。


社会的行為というものは「意図」に基づくものだという定義のようなものもありますので、自分の書いた文章の強調したい点としては、意図する対象を書き記した「社会に対する」という点になります。


研究であっても、言説分析であっても、だいたいのものが社会学界隈に向けて書くことが多くて、そのようなことに対しては、閉鎖的であるという批判がなされてたりもするわけです。でも、それは特に問題でもなくて、おそらくは、社会学界隈に向けて書かれるということに慣れすぎているために、社会学界隈以外の人たちに自身の行為が影響を与えるという可能性を想定していないということの方が問題なのではないかと思っています*1


で、責任の話になるわけですが、社会的行為ならば責任が常にあるといったことや、研究ならば常に責任があるという形式的な責任のことを言っている訳ではなく、責任についてもそもそも一義的には決まらず、文脈依存をするものだと思われます。社会学はその学の必然として政策や政治にコミットをすることになるという考えを持っています*2ので、政策や政治なりにつながりうる研究は社会的行為と認識して責任を持ちましょう、と。つまり、言説分析を含めての社会学の研究が政策や政治に影響を与えることがあったなら、社会学は価値判断を停止してますから責任はありませんという言い訳は成り立たないというのが先のエントリで書いたことです。


言説において意味を引きはがしたとしても、最終的にはどこかにランディングはさせないといけないわけで、そういう時には、もともとその言説にひっついていた意味が何らかの影響を他者に与えていたのと同じく、新しくランディングさせたものも、何らかの影響を他者に与えうるということ。そして、そこに至らずとも、遅延化させることも、そもそも引きはがすことも他者に影響を与えうるだろうということ。


要らない話ですが、遅延化なりランディングなりといったこういう幾つかのオプションを、逆手にとって、社会学者の手によって社会問題を構築するというのが読書会で話そうと思っていることですね。そのためにこういう話をしているということです。まったく余談ですが。


ひとまず、こんなところで。

*1:反省的な視座を持つことさえすれば、誰に向けて語るかということを意識する・意図することが達成されるわけではない。後者のためには前者は必要だが、前者によって後者が満たされるわけではない

*2:この前提は共有できないかもしれませんが