井出草平の研究ノート

いま、アスペルガー症候群が注目されている背景

加藤敏・十一元三・田中康雄 他 
「座談会/いま、アスペルガー症候群が注目されている背景」
『現代のエスプリ』 (464),5〜39,2006/3.

田中


杉山登志郎先生が「そだちの科学」五号(二〇〇五年十月)で、相談に来ているアスペルガー症候群と診断された方のうち、触法行為は四・七%で、九五%以上は触法行為とは無関係であったという自験例を出していますね。


おそらくこの論文。

杉山登志郎,
「アスペルガー症候群の現在」,
『そだちの科学』 (5),9〜21,2005/10(日本評論社).

加藤
ラカン精神分析の見地からすると、あくまで喩えですけれど、精神病は、机に脚が四本あるうち一本が欠如している病態で、その一本をどう補うかが課題となるととらえられる。この見地からすればアスペルガー症候群でも、一本ない脚をどうするのかということが問題になるわけです。その場合にまずは、ドナウィリアムズが良い例だけれども、自分で二人の想像上の同伴者をつくりだし、そういう人物に自分を委ねる形で、いわば「かのような人格(アズ・イフ・パーソナリティ)」をつくり、それがうまくいくと、曲がりなりにも仮の自我が隔離されて自浄の言語が出てくる。
自閉症の場合、そういうことはできないが、アスペルガー症候群だと仮の自我を何とか作る力を持っている。類比的に言うと統合失調症での、妄想型と寡症状性分裂病の違い、そんな気がする。


「かのような人格(アズ・イフ・パーソナリティ)」というのは興味深い。アスペルガーではない「ひきこもり」にも応用出来ればよいのだが。

加藤
そうです。現在、アスペルガー障害はDSMの中では臨床疾患の分類である1軸障害に入れられていますけれども、すべて1軸障害にすることは問題があって、人格のある種の歪みというか、欠陥があるという意味で人格障害の分類である2軸障害に、まずはしておいたほうがいいと思います。そこに、躁的な状態になって興奮が起きるとか、幻覚妄想が生じてくるといった、1軸障害に入れるべき病態が付加されてくるのと区別した方がいい。


アスペルガーはⅠ軸よりもⅡ軸だという考え。(多軸評定についてはこちらなどを参照)
それは確かにそうかもしれない。

加藤
もう一つは、定型発達の子どもだったらむしろ窮屈な行動の枠組みを嫌うのですけれど、枠組みはあった方がすんなりといける。整然とした部分がないためにかえって不登校になってしまうという、通常とは逆の不登校アスペルガー症候群には多いです。


なるほど。とするなら、社会学の枠組みから言うと大学でひきこもり(不登校)になるケースと環境因子の点ではよく似ていることになる。
大学での不登校アスペルガー症候群だというのではなく、社会学は個人病理という考えを持たない(否定しているのではなく)ため、両者の差異を見極めることは社会学としては出来ないだうろ。
社会学というのはある特定の現象の原因の一つである社会的要因*1を因果的に断定するものであるので、社会的要因を見た場合と両者は非常によく似たものに見える。


石川
日本で、二次障害という場合、実にいろいろなものが入っていて、当初はADHDでいつも叱られ自尊心を喪失していったとか、LDで学習意欲をなくして不登校になったというように、発達障害が基盤にあるために派生した症状を、心理的過程という形の因果関係で作文するのに使われていたようですが、意味内容がどんどん現場で肥大して直る感じがします。人によっては、学校の対応けじめや虐待で発達障害が顕在化したり、うつや薬物濫用といった新たな合併症が発症したりすることまで含めていて、とにかく「悪いこと」「防ぐべきもの」というイメージが強い。しかも、問題だと思うのは、「二次障害さえ起きなければ発達障害は何の不都合も来さない」と心う曲解があって、家族の方々に学校と対立させ、育児には後悔をもたらしている。


「二次障害」について要注目のようだ。

十一
確かに本来の基本症状以外に加わったもの全部ひっくるめている。ひとつは、先天的障害があると言われてしまうのが嫌な保護者を救うというニュアンスもあるけれど、逆にそれが翻って環境のせいではなく保護者への責任転嫁論という刃にもなる。いわば葛藤状態だと思うのです。


非常に重要なことだ。コンラッド=シュナイダー=ガスフィールドらは「病気」というものを受け入れたとしても依然として「逸脱者」であるには変わりないという(参照)。医療モデルが無責モデルで本人に責任はないということが示せたとしても、逸脱であるならば、責任は本人以外のところに帰着される。一番手っ取り早いのは遺伝子の提供者である「親」なのだろう。

田中
たとえば「トム・クルーズだってLDだったの、ですよ」という話が、親の精神的支えになる場合もあるし、一方で「エジソンアスペルガー症候群、ヴイトゲンシュタイン、あの有名な哲学者だってそうだとしても、うちの子はそんな器じゃありません」と選ばれた者の栄光話を聞くより、今日の前のこの子のことについて話し合いたいという方も多数おられます。その道のバランスが難しいと思いますね。


十一
家族会の人にもいろいろを意見があるようですが、要は、広汎性発達障害を持つ人であっても定型発達であっても、なるべく社会適応して本人や家族が苦しまず、不条理な日に遭わずに暮らせることが重要で、〝特殊な才能がある″などを理由にカウンターバランスをとる必要はないと思います。そういうことがちゃんと分かっている親御さんもいれば、思想的に主張でつっぱしる保護者の方もおり、どうしても成功者を何とかというようなことになりやすい。


磯部潮『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子 (光文社新書)』でカウンター言説が展開されていた。もちろんそれは必要なのだろうけども個人的には違和感を感じる。


加藤
先に話した、夫婦でどうも旦那がおかしいと病院へ行ったらアスペルガー症候群と診断され離婚話になる。診断が、うまくやっていた人への新たな差別概念になるのです。これから就職という場合でもアスペルガー症候群と言ったら、採用しないということになりかねない。


説得力があるなあと思ったのは、「「障害」という言葉で人の援助を期待しすぎると、これも大きな問題ではないか」という条理です。生活のある人には良いのだけれども、障害をそれとして固定してしまうことは人間の将来における発展可能性という点では阻害的に働いてしまうことを危倶します。アスペルガー症候群に限らない問題ですがね。


疾病利得の問題。「障害」であることは本人への救いになることもあるが、逆に差別を生み出すことにもつながる。パーソンズ=キトリー=コンラッド=シュナイダーでいうと、以下の箇所にあたるだろう。

責任から免除されることによって,その人の社会的地位は引き下げられることになる。このようにして,社会にほ自分の行動正対して責任を持つことができる人とそうでない人の二つの階級が形成されることになる。完全にはその責任を負うことができない病気の者は,完全に責任を果たしている病気でない者に対して従属的な立場に置かれる(Parsons 1975:108)。キトリーは,このような考え方をするとアメリカ人の半数以上が刑法による制裁から逃れることになり,このような人々は文字通りの「第二階層市民」となってしまうと指摘している(Kittrie 1971:347)。(コンラッド=シュナイダー『逸脱と医療化―悪から病いへ (MINERVA社会学叢書)』470頁)


ひとまず考えられるのは以下の3つ。

  1. 責任の免除……病気なので本人に責任はない
  2. 回復の義務化……一般的に求められる社会的責任は免除されるが逆に回復する責任を負う
  3. 従属的立場……「人」未満とされる。老人に子供言葉などの現象に典型的に現れている


責任の免除から差別の正当化がなされる。
つまり、本人の責任が無効化されるなら、差別しても差別された側は傷つきにくくなるし、差別する方も傷つけてしまったという感覚が鈍くなる。上の引用にあるように就職差別がまず考えられるし、離婚もあるのだろう。もちろん、アスペルガー症候群を雇用者側からみてみると、営利追求や職場管理の面からあまり雇おうとは思わないかもしれないし、配偶者に関してもやはり問題が起きがちではないかと思われる。この辺りは難しいところである。問題は「アスペルガー症候群だから」と説明できてしまうところ(恰好の理由になってしまうところ)にあるのだろう。


次に回復の義務化だが、この点では、いわゆる「病気」とアスペルガー症候群とは異なっていて、風邪は治るが、アスペルガー症候群は治るわけではない(もちろん社会参加は可能になる場合があるが)ので、継続的に「従属的立場」に置かれることになる。この副作用として、自発的な能力へ努力がなされずに、社会参加への訓練のモチベーションを奪うこともあるのだろう。

十一
児童精神科の実感とすれば、障害という言葉は、一つの特性を表す呼び名であるという感覚でずっときていて、そんなに違和感がない。


石川
気づいていなくてたまたま東大の倉光修先生に指摘されたのですけれど、DSMの医学書院刊行定訳本ではディスオーダーに対応して「疾患」と表紙には意訳してありますね.


十一
新聞記者からよくくる質問は「鑑定が出ましたけど、病気なのですか」と。その時に「DSMの表面に「疾患」と書いてあるという意味では、病気になるけれど、一般に病気として想像される類いのものではありません」という変な説明になってしまいます。


石川
DSMのディスオーダーは一種の症候群(シンドローム)と考えて良いのですね。


加藤
症状複合体は症候群ということですね。


石川
その辺が誤解されていて、ICDなどでいうアスペルガー症候群なら良いがDSMのアスペルガー障害は抵抗があるという患者さんやご家族には説明が要るわけです。


加藤
エビデンスということが最近よく言われるけれども、精神医学では疾患自体が記述的なエビデンスに留まっているものが多いわけで、それらの病態がいかに明らかにされるかは大きな課題として残っています。だから、さしあたり内科外科モデルと違うということを、患者さんあるいは家族に知らせておく必要があると思う。


「障害」という概念について。いわゆる「病気」ではないということは分かるし、一般的な日本語の語感である「障害」とDSMなどの言う「障害」(disorder)は違っていることも理解できる。やはり問題は社会的に「障害」という言葉がどのように受容されているかと言うところだろう。


田中
人づてにですが、ウィングはアスペルガーの論文を再発見したのを後悔しているというふうに聞きましたね。スペクトラムの話と疾患概念の話というのは、共存しにくい。アスペルガーという概念を独立させることへの戸惑いがあるようですね。


「ウィングはアスペルガーの論文を再発見したのを後悔している」そうだ。ベクトルと概念は相性が悪いのは確かに。

十一
ウィングより遥か前に、日本がアスペルガーの論文に凄く注目しておりましたよね。世界で最初にアスペルガーを学会レベルで担ぎ出したのが日本で、議論すべてが必ずしも生産的でなかったかもしれませんが、これはカナー型かアスペルガー型かと、一九六〇年代に論争した。英語圏での議論でなかったことにもよると私は思うのですが、最初に議論したご本家である日本で、アスペルガーの一般解説書がウィングから出発するのは悲しい気がします。


石川
自閉症をカナー型とアスペルガー型と分けたのが、精神科と小児科の対立みたいな形になっていた。たまたま日本にアスペルガーの弟子である平井信義という小児科医が居た。一方がカナーのもとで研修した牧田清志。


アスペルガーにいち早く注目したのは日本の学者のようだ。

十一
アメリカにいる間にびっくりしたのは、日本の児童精神科医ならどう診ても自閉症だと思うようなケースを、平気でPDD−NOS(特定不能の広汎性発達障害)とか診断しているのです。どういうことかというと、確かに、まさに字義通りに診断基準を当てはめ、基準が一個でも当てはまらないと躊躇なくアルゴリズム(問題を解決する定型的な手法・技法。医学では薬物療法の際に多用)に沿って次に進む。日本とはかなりの文化差がありますね。


加藤
DSMの精神障害の分類は、マニュアル的で、アスペルガー症候群の思考様式と親和性があると言えるほど極端。一方、日本人の診断の仕方は微妙なニュアンスを大事にし、感性に富むと言いたいですね。現代はある意味ではアスペルガー症候群式思考様式に立脚しないと、スタンダードにならず、客観的な診断基準、また治療ガイドラインとして認められないという変な時代なのですよね。これは危険ですね。


DSMでsplitすることへの批判。自分は社会学徒なのでsplitするか大きなカテゴリで考える方が良いかという治療的意義は判断がつかないが、splitする考え方は社会学と相性が悪いとは思う。

加藤
アスペルガー症候群統合失調症は遺伝的にはあまり交差がないという説が多いようですね。


十一
そうだと思います。気分障害やADHひなどは結構家族にありますけれど、あまり統合失調症と重ならない。あとは、チック障害とかとの重なりは結構ありますね。


遺伝についての指摘。

*1:一つの現象に対して経済的説明・心理的説明・生物的説明など種々の説明法があり、どれかの説明ですべてを説明を完了することは出来ない。複合的な要因の中の一つである社会的要因を特定するのが社会学であり、それ以上でも以下でもない