井出草平の研究ノート

eデモクラシー、あるいは、ドットコム・デモクラシーの可能性

ポール・ハーストによるドットコム・デモクラシー(eデモクラシー)の評価について。


戦争と権力―国家、軍事紛争と国際システム

戦争と権力―国家、軍事紛争と国際システム


ドットコム・デモクラシーとは、インターネット等の電子技術を民主主義に導入するというもの。ポール・ハーストによると、ドットコム・デモクラシーは現在の制度に取って代わるものではなく、領域的デモクラシー(物理的な地区で分けられたもの)の補完にしかならないという。

 次に、ドットコム・デモクラシー(dotcom democracy)について言えば、それはまさに、諸集団を新たな方法で組織化し、あるいは、ばらばらな有権者を効果的な集団へと統合する。したがってそれは、これまでの古い政治にとって制約となってきた集合的行為の限界を克服し、概して有益である。
 つまりそれは、むしろ従来の政治を活性化し、伝統的な政党がいつでも動けるような助けになるかもしれない。それゆえ、ドットコム・デモクラシーによって、領域性に根ざしたデモクラシーの形態が追放されることはないだろう。たとえ投票や選挙運動が主としてネット上で行われるようになったとしても、政府を選択し、それに正当性を付与する手段を提供するのは、領域的なデモクラシー(territorial democracy)である。そしてこれこそが、代表制デモクラシーが、領域国家内で権力へのアクセスをコントロールする、近代デモクラシー政治の中核であり続ける理由である。まただからこそ、他のすべての民主主義的メカニズムや代表制メカニズム----機能的代表制に基づくコーポラティズムの構造、結社デモクラシー(associative democracy)、熟議デモクラシー(deliberativedemocracy)など----は、これまで、決して補助的な役割以上のものではなかったのである。(163-4頁)


基本的には「領域的」なものに縛られる。コミュニタリアンがしばしばいうコミュニティとは領域的なものだけに限定されないという見解にも限界があるということになる。例えば、アミタイ・エチオーニは以下のようにコミュニティを定義している。

「「コミュニタリアン」という言葉で,特に村や小さな町のようなコミュニティだけを想い起こすかもしれない.しかし本書は,およそ社会的な実体であれば,村から各国の国民(夫婦,家族,趣味サークル,世界全体)までのあらゆる集団を含み,これらをよりいっそうコミュニティ的なものへと変化させるための研究である.コミュニティとは(人間関係の)属性の集まりであって,どこか具体的な場所を意味するものではない.」(アミタイ・エチオーニ『新しい黄金律(ゴールデンルール)―「善き社会」を実現するためのコミュニタリアン宣言』:21)


コミュニタリアニズムが領域的なものも非領域的なものも捉えられたとしても、政治的な決定能力に欠けるならば両者には質的な違いがある。コミュニティは地域に限定したものではないんだよ、というように言うことは、元来コミュニタリアニズム全体主義との親和性を指摘されてきたことへの予防線として貼られてきた経緯がある(コミュニタリアンにとって予防線という言い方は納得がいかないだろうが)。しかし、政治的な決定能力に欠けるならば、結局のところ政治的に決定力を持ったコミュニティは領域的なものにならざるを得ない。このあたりの見解についてはコミュニタリアンたちがどのように反論するかあまり知らないので、少し調べてみたい。


話は戻って、ハーストは以下のようにドットコム・デモクラシーの能力を記述している。

 グローバルなドットコム・デモクラシーは、自発的な自治に基づく共同体を意味するが、それゆえに排他的である。自治に基づく政治について本来問題は何もなく、しかも私は自治に基づく自発的な結社による民主主義的ガバナンスの改革を訴えてきた。そのような組織形態は、国家や国際組織の政策に影響を与える運動のための新たな資源を提供し、また、境界横断的なヴァーチャル・コミュニティのための連携を提供できる。しかし、自発的組織形態は、領域的政府を補完することはいざしらず、それに取って代わる能力に欠けている。それはまさに、自発的組織形態がヴァーチャルだからである。したがって、自発的組織形態が頼れるのは、構成員の自発的な追従、あるいは組織内の義務不履行者に対して、構成員が行動を起こすよう説得することだけである。


自発的組織形態は領域的政府を補完はしても代替にはならないという。そして、インターネットを使った運動は構成員が行動を起こすよう説得するのに有効(それ以外には今のところ期待できない)という。現在の状況を見ても、インターネットを政治のツールとして使われているアメリカなどを見ても、従来のデモクラシーを補強するという形で使われている。ハーストの時代診断によるとこの傾向は当分の間変わることがないということになる。
そもそも、ハーストは結社デモクラシーの研究で知られているが、彼は結社デモクラシーは補助的な役割以上には位置づけていない。ドットコム・デモクラシーも基本的には同じように考えられている(ドットコム・デモクラシーはドットコム・デモクラシーというような表現で表すよりもインターネットはツールに過ぎないという見解に近いように思われる)。
ハーストが領域的な代表性デモクラシーの堅牢さを信じる理由は、領域的なデモクラシーの権原にあるようだ。

普通選挙権や領域的な選挙区などのメカニズムは、----それが、どんな利益が代表されているかいないか、明確な政治的選択を含んでいないがゆえに----それ以外のメカニズムとは異なり、包括的である。もしも国家が重要なものであり続けるならば、代表制デモクラシーは、完全に正当化された体制にとって必要不可欠なものであり続けるだろう。


そしてハースはインターネットはほとんどの人々にとって政治的なツールにはならないと考えている。

シアトルやプラハグローバル資本主義への抵抗者たちは、国際的ガバナンスの問題を劇的に表面化させるが、彼らはその問題を解決できない。彼らは、会議室内で独りよがりの指導者たちを動揺させることにおいては積極的な意味を持つが、それ以上のものではない。彼らは、多様な利益にもとづき、一貫した代案を持たない抵抗者たちからなる、不安定な連合である。インターネットは国家の代替にはならない。そして、ほとんどの人々は、他者と政治的に接触するためにインターネットを使い続けるのではなく、ビジネス、趣味、友人や家族とのe−メールのために使い続けるだけであろう。


東浩紀はSNSで直接民主制が可能というようなことを言ったりはしているが、インターネットのSNSが代表制デモクラシーの代わりになるというのは飛躍があるということになる。確かに、代表制(議員の選出)からSNSに変更する点で、領域的なデモクラシーであるという点には変化はない。しかし、権原の問題は残り続ける。
インターネットが得意/不得意、SNSが性にあっている/あっていないなど人によって異なるということなどである。また、SNSは連続的なコミットメントを要求されるが、代表性は選挙に行くだけの時間だけで済む。選挙に行くのはめんどくさいが、毎日SNSをチェックし議論に参加することはもっとめんどくさい。忙しい人や、政治にあまり興味がない人にとっては、このようなコミットメントを求めるのは酷であるし、不平等である。また、連続的なコミットメント(四六時中ネットを使う者)や、議論を積極的に交わす者が有利になることが予測するのは容易である。


ハーストは「どんな利益が代表されているかいないか、明確な政治的選択を含んでいないがゆえに」代表性デモクラシーは正当であると言っていた。しかし、SNSやインターネットを代表性の代替手段にすると、そこには明確な政治的選択があるのは間違いなさそうである。ハーストに従えば、SNS直接民主制というのは「明確な政治的選択を含んでいるがゆえに」に問題があるということになるように思われる。


インターネットが政治的なツールとして有効に働いた例はあるが、例があるからといってインターネットはほとんどの人々にとって政治的なツールとして有効になるとは言えない。ほとんどの人々にとってインターネットは政治的なツールではなく、ビジネス、趣味、友人や家族とのe−メールなどとして使われるというのは、おそらく正しいのだろうなと思う。